篠田節子『妖櫻忌』(角川書店、2001年)
篠田節子さんの、『カノン』とか『ハルモニア』に見られるような、芸術家あるいは芸術というものの神秘的な力を描いた一連の作品の一つと言っていいだろう。今回は作家、しかも日本の中世から近世の歌人を描く小説家であり歌人でもあった大原鳳月という女性の情念が、彼女の秘書をしていた若桑律子にのり移って、優れた短歌論や批評を書かせてきたというような、オカルト的な芸術家像を作り上げている。大原鳳月は律子のもっていた「論理的思考、広く深い教養、地道な情熱、根気、卓越した記憶力」を利用し、逆に若桑律子も大原鳳月がもっていた卓越したリズム感をもって五行から六行にもおよぶ流麗な調文を自在に駆使していく文体を利用した。そうして出来上がったのが、大原鳳月の文章だった。だから若桑律子はたんに大原鳳月のゴーストライターだったわけではなく、たんに大原鳳月が若桑律子にのり移って好きなことを書かせたわけでもなかった。両者の合作のようなものだったのだというのが、この物語の真相ということになる。
58歳になる女流文豪の大原鳳月が、二回りも若い演出家と、彼女の東屋風の茶室で、火事のために死んだというところから物語は始まる。彼女が「花伝書異聞」を連載をしていた出版社のアテナ書房の担当者の堀口のところに、大原鳳月の秘書の若桑律子が最終回の原稿をもって来る。その直後、彼女が大原鳳月の伝記だという原稿を持ち込んできたが、それは律子が以前にも書いたことがある下手な文章だったので、それを書き直してもらったところ、大原鳳月の書いたものとみまちがうような出来栄えのものを律子が持ち込んだところから、じょじょに堀口は律子が衰弱していき精神に狂乱の度を増すのを見て、大原鳳月が律子にのり移って、死後まで自分の文章を書かせようとしているのではないかと思うようになる。大原鳳月の自伝が完成し、新たな作品に取り掛かるというときに、律子は大原鳳月の霊を拒否し、その挙句に悶死してしまう。そしてやっと大原鳳月の霊が起した不可解な事件は終わるというのが、この小説のあらすじである。
音楽家なら、モーツァルトのように、ふだんは下ネタばかり口にして人を笑わせる、ちょっと下品な人間でありながら、作られた音楽は天上界の世界のような崇高な世界を描いているというような例もあるので、天才と狂気は紙一重的な芸術家像も成り立ち得るのだが、文学の世界だとどうなんでしょう。ドストエフスキーとかカフカのような例もあるから一概には言えないけれど、こういうオカルト的な発想はちょっと無理があるじゃないでしょうかね。もちろん作り物ですから、オカルトだめということではなくて、リアリティーに欠けるということです。そんなことあるかもしれないなと読者が思えないというか、楽しめないというか。ちょっと私も疲れ気味かな。
篠田節子さんの、『カノン』とか『ハルモニア』に見られるような、芸術家あるいは芸術というものの神秘的な力を描いた一連の作品の一つと言っていいだろう。今回は作家、しかも日本の中世から近世の歌人を描く小説家であり歌人でもあった大原鳳月という女性の情念が、彼女の秘書をしていた若桑律子にのり移って、優れた短歌論や批評を書かせてきたというような、オカルト的な芸術家像を作り上げている。大原鳳月は律子のもっていた「論理的思考、広く深い教養、地道な情熱、根気、卓越した記憶力」を利用し、逆に若桑律子も大原鳳月がもっていた卓越したリズム感をもって五行から六行にもおよぶ流麗な調文を自在に駆使していく文体を利用した。そうして出来上がったのが、大原鳳月の文章だった。だから若桑律子はたんに大原鳳月のゴーストライターだったわけではなく、たんに大原鳳月が若桑律子にのり移って好きなことを書かせたわけでもなかった。両者の合作のようなものだったのだというのが、この物語の真相ということになる。
58歳になる女流文豪の大原鳳月が、二回りも若い演出家と、彼女の東屋風の茶室で、火事のために死んだというところから物語は始まる。彼女が「花伝書異聞」を連載をしていた出版社のアテナ書房の担当者の堀口のところに、大原鳳月の秘書の若桑律子が最終回の原稿をもって来る。その直後、彼女が大原鳳月の伝記だという原稿を持ち込んできたが、それは律子が以前にも書いたことがある下手な文章だったので、それを書き直してもらったところ、大原鳳月の書いたものとみまちがうような出来栄えのものを律子が持ち込んだところから、じょじょに堀口は律子が衰弱していき精神に狂乱の度を増すのを見て、大原鳳月が律子にのり移って、死後まで自分の文章を書かせようとしているのではないかと思うようになる。大原鳳月の自伝が完成し、新たな作品に取り掛かるというときに、律子は大原鳳月の霊を拒否し、その挙句に悶死してしまう。そしてやっと大原鳳月の霊が起した不可解な事件は終わるというのが、この小説のあらすじである。
音楽家なら、モーツァルトのように、ふだんは下ネタばかり口にして人を笑わせる、ちょっと下品な人間でありながら、作られた音楽は天上界の世界のような崇高な世界を描いているというような例もあるので、天才と狂気は紙一重的な芸術家像も成り立ち得るのだが、文学の世界だとどうなんでしょう。ドストエフスキーとかカフカのような例もあるから一概には言えないけれど、こういうオカルト的な発想はちょっと無理があるじゃないでしょうかね。もちろん作り物ですから、オカルトだめということではなくて、リアリティーに欠けるということです。そんなことあるかもしれないなと読者が思えないというか、楽しめないというか。ちょっと私も疲れ気味かな。