読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『継体朝とサーサーン朝ペルシア』

2018年12月07日 | 人文科学系
小林惠子『継体朝とサーサーン朝ペルシア』(現代思潮新社、2012年)

小林惠子の日本古代史シリーズ第四巻である。第三巻は『広開土王と「倭の五王」』なので、すでに読んだので、飛ばした。

6世紀の継体天皇から、安閑、宣化、欽明、敏達、用明天皇あたりが記述されている。この時期になると、はっきりと、倭国の王が新羅、高句麗、百済の王と同一人物である例ばかりになる。

この著者になると、
継体は新羅の智証王(新羅王時代500年~14年、天皇500年~31年)

安閑は高句麗の安蔵王(高句麗王を519年~31年までやったあと、天皇を34年~35年)

宣化は新羅の真興王(天皇を536年~39年までやったあと、新羅王を40年~75年まで)

欽明は百済の聖王(百済王を523年~554年までやっている間に、540年から54年まで天皇)

敏達は百済の威徳王(百済王を54年~98年までやっている間に、76年~83年まで天皇)

用明は百済の恵王(はっきりしたことは分からない)

ざっとまぁこんなふうである。この巻の冒頭では、当時は中国の諸国の力が弱くて、統一国家がなく、代わりに匈奴やエフタルというシルクロード周辺の民族が自由に中国の北方を行き来していたので、はるかサーサーン朝ペルシアの支配者が列島にまでやってきたという。そして上記の、継体から欽明までは、このエフタル人の政権だったという。そして敏達からはエフタルに取って代わって大陸の覇権を握った突厥の王朝に変わる。こうした証拠を正倉院に保管されている、珍しい文物から紹介している。

そういうわけで、当時の列島と半島は今のような明確な国家としての区切りがなかったという。「この時代の国は日本の戦国時代の大名・小名の領地に近いという観念を持ったほうがよいと思う」と書いている。

高句麗、百済、新羅、加羅、倭国の五国は、現住する庶民こそ移動することはないが、王族を含めた為政者クラスは、婚姻や戦いで、たえず入れ替わっていた、というのだ。

文献的にもそれを証明する印として、著者が挙げているのは、『日本書紀』という日本の支配者の歴史を記述した本に、上記の五国の歴史書としての性格を持っていることが分かるという。だから高句麗の歴史書にも載っていない将軍の遺言について『日本書紀』が記載していたりすることだ。

とくに雄略天皇の頃(477年)に、雄略天皇その人である倭王武が、南朝の宋に対して、高句麗以外の諸国の安東大将軍を自称したのも、この時期は、高句麗以外は、実質的に統一政権のもとにあったし、雄略天皇の次に統一を成功させたのは、上記の新羅の真興王だったという。

もちろん支配者たちが入れ替わっても統治がスムーズに行えるのは、彼らに従った土着の支配者たちがいたからだが、それがどうやら、蘇我氏や物部氏たちだったようだ。欽明天皇の時代からこの著者の記述に、蘇我稲目や物部守屋の名前が出てくるようになる。この巻はほとんど知らない登場人物たちばかりだったが、やっとこの辺になって蘇我稲目というような馴染みのある名前が出てきて一息つける。

そして次の巻はあの聖徳太子が主人公である。面白そう。



この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『海翔ける白鳥・ヤマトタケ... | トップ | 『聖徳太子の正体』 »
最新の画像もっと見る

人文科学系」カテゴリの最新記事