『江戸病草紙―近世の病気と医療』(立川昭二著)に江戸時代の諸々が記されています。江戸時代は老人が尊敬されたのは、儒教の影響もあるが、老人そのものが少なかったからではないかという疑問を持ち、この本を入手しました。
結論から言えば「江戸時代の平均寿命は30歳」なのは、乳幼児の死亡率が非常に高かったからです。そして結構、年寄りも多かったよいうことです。
11代将軍家斉(いえなり)には、55人の子女があったが、この55人中2人が流・死産、二歳未満の死亡は二十一人。十五歳以上まで生きだのが二十一人、それも四十を越えた者は、12代将軍家慶を含めてわすか七人。五十二人の平均死亡年齢は、なんと十四歳であった。
将軍・大名の子女ですら、平均死亡年齢はこのように低かった。
一方、江戸時代の戸籍といえば人別帳がある。速水融は信州諏訪地方の宗門改めの人別帳をもとに、二歳児の平均余命をもとめている。それによると、
寛文11(1671)年から享保10(1725)年のそれは男36.8才、女29.0才、享保11(1726)年から安永4(1775)年になると、男42.7才、女44.0才である。
しかし、さきにみたように、乳幼児死亡を除外すると、江戸時代の人びとも六十歳をこえるいのちを享受できた。江戸時代の六十歳の平均余命がほぼ十四歳という推計値は、今日とあまりひらきはない。しかも、江戸時代は、八十歳・九十歳の高齢者の出現率が、今日より高かった。飛騨の往還寺の過去帳にも、百二歳を最高として、八十・九十歳代の高齢者が江戸時代のどの年度においてもかなり見られる。
西鶴・芭蕉はいずれも「人生五十」であったが、『養生訓』の貝原益軒は八十五識、『蘭学事始』の杉田玄白も八十五歳、『八犬伝』の滝沢馬琴は八十二歳、『富嶽三十六景』の葛飾北斎は九十歳、彼らはいずれもその歳まで、いのちを燃やし続けることができた。(以上)