仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

安田善次郎のこと

2012年04月12日 | 仏教とは?
『中央公論』(2012.5月号)に、前号から引き続き安田善次郎(歴史的人物なので敬称略)の一代記が連載されていました。

安田善次郎は三井・三菱・住友と並んで四大財閥に数えられる旧安田財閥の創設者であり、出身地富山の浄土真宗教徒の土徳を身につけ、真宗大谷(東本願寺)派の村上専精の精神的指導を受けたとも聴きます。

東京帝大文学部仏教講座に生前五万円を出したり、今日もその姿をみることができる安田講堂、日比谷公会堂をふくむ東京市政調査会館などの寄付者としても有名です。

安田善次郎の生活は、仏教に貫かれていますが、浄土真宗色は、あまり見出せません。「あまり」と書いたのは、下記のように書く人もおられるからです。

下記はhttp://www004.upp.so-net.ne.jp/chishu/ronron/2004/inbuds2004.htmlより引用。

「家業を報恩行とする真宗の職業倫理は、家業や家職に精励することを勧めた経済倫理なのである。
 したがって、真宗の経済倫理の特色は、生産(家業)への精勤を勧め、消費における節約と、奢侈を禁じ、堪忍、正直、高利の禁止、財貨の獲得における貪欲の禁止、などであった。つまるところ、「需要充足経済」(Bedartswirtschaft)の倫理にとどまっている。「小欲、知足にしてい、身の分際を堪へて、花美をなさず、法義にそむかぬ」(※『香樹院語録』225頁)ことが、真宗への一般的態度であったといわれている。こうしたところには、少なくとも、無限の利潤追求を肯定する経済倫理は生まれにくい。しかし、江戸時代の豪商であった真宗門徒のなかには、無限の利潤追求をめざした人たちもあったのではないかという見方もある。少なくとも、明治期以後になると、営利追求の経済活動が浄土教(浄土宗や真宗)によって基礎づけられ、正当化された点が指摘されている(※中村元『日本宗教の近代性』(181頁)には、その例として、安田財閥の創設者安田善次郎が真宗大谷(東本願寺)派の村上専精の精神的指導を受けていることや、宇部興産株式会社の創設者渡辺祐策は浄土宗管長の山下現有の指導をうけ、山下の理想として説いた「強善能富」を理想としたことを示している。)。
(芹川博通『宗教的経済倫理の研究』多賀出版 1987年2月pp.301-302 下線は引用者)
 行基と資本主義とを関連させた長部日出雄『仏教と資本主義』などもある。(以上)

安田善次郎のことに止まらず、浄土真宗と関連づけする手法もありますが、逆に、なぜ浄土真宗の念仏者でなかったかという研究も、おもしろいと思いました。これは宮沢賢治やその他の人においてもいえることです。

以下は(http://www.hikoboshi.com/eba/inori/inori295YasudaZenjirou.htm)の転載。

誰しも人から悪口をいわれると、一時は好い気持ちはしない、誤解を受ければそれを弁解したいと思うのは人情である。けれども私はいずれの場合にも、これは天がいわしめられるものである、自分の注意の足りない所を天が訓戒せられるものであると受取って、必ず身ら反省して後来(将来)を戒めるのである。汝の敵を愛せよという言葉は、この場合に於いて最も適切であると思われる。普通の友は自分に対して気に逆らうようなことはなるべく遠慮していわない、けれども敵であれば、自分の欠点短所を遠慮なく暴露する、自分が自分の過失を覚えることの出来ない場合に、敵は遠慮なく真実を指摘してくれる。故にそれを取って以って後日の戒めとして修養すれば、敵の我に対する悪言は、我を策励(さくれい)する所似の忠言に外ならず、誹謗は我の真実を映す鏡ではないか。こう考えて見れば、敵は我を鼓舞し激励させる所似の良友であるから、汝の敵を愛せよとの古言は実に金言である。

安田善次郎:著:「意志の力」 : 安田生命保険相互会社 発行

万遍なき天の采配



日々を愉快に暮らすことは、我々がこの世を渡るについて最も大切な心掛けであるといわねばならぬ。実際我々はこの世を愉快に暮らすべき筈のものと定(き)まっているのではないか、何故というに天は我々が万遍なく愉快を得るように万事を仕向けているのである、それにも拘らず愉快に暮らし得ないものは、畢竟(ひっきょう)この道理を覚らずして、殊更自ら不愉快を求めるものといわなければならぬ。


愉快の要件質素生活
 
日々を愉快に暮す一要因として質素生活を一言しなければならぬ。人間の奮闘時代には、質素生活は有形無形に非常な大利益あるものであって、身装(みなり)が質素であればそれだけ多く働くことが出来る、根気強くなり、忍耐力を増し、勇気も加わって困難にも堪え得るようになる。仕事が多く出来るだけ成功は堅実になる訳であって、希望は益々加わり、愉快の度も加わるは当然の結果である。人もし一度贅沢の習慣が付けば、忽(たちま)ち元気衰え、身体は惰弱になり、勤労には堪え得ず、不平等は加わり、不愉快だらけで日々を送る結果となる。
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