仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

宗教は日本を救うか

2012年04月11日 | 新宗教に思う
新聞に『中央公論』(2012.5月号)の広告、特集「宗教は日本を救うか」が掲載されていたので早速書店へ行きました。お寺から50メートルのところに郊外型中型書店があります。

『文芸春秋』は20冊平ずみになっていましたが、目的の『中央公論』は、私が求めた一冊だけ、不安げにおいてありました。

読書後の感想は“中央公論も、これじゃー売れないわな”というものです。これは少し言い過ぎかもしれません。それぞれ高名な執筆者ですが、内容が私的な部分を出ていない。それぞれの方の「宗教に期待します」という思いが活字になっているだけでした。

少し考えさせられたのは、フォトジャーナリスト藤田庄市氏の“オウム、統一教会…「信教の自由」に奪われた自由”です。“少し”と入れたのは、私自身、考えの入り口になるからです。

内容はカルト教団の被害の実態が示され、信教の自由とは何かを問うたものです。最後の結びだけを転載します。

「信教の自由」の不自由を超えて

 世間的には理解し難い信仰を作りあげられた信者はどうしているのか。日本人女性信者が、教祖指名の見知らぬ韓国人男性と合同結婚式をあげ、農村部を中心に七〇〇〇人も渡韓している。
また、相手を救おうと本気で考えて霊感商法に励み、なかには前科者となった信者もいる。
 こうした統一教会の伝道は元信者によって「青春を返せ裁判(違法伝道訴訟)」として全国八ヵ所で争われ、すでに最高裁において元信者側の勝訴がいくつも確定している。しかし、そこまでの道は平坦ではなかった。当初、地方裁判所レベルでは元信者側か三連敗したのである。
 二〇〇一年に札幌地裁において画期的な判決を勝ち取った郷路征記(ごうろまろき)弁護士は、二五年間にわたり次のように主張し続けてきた。
 「統一教会の布教は憲法違反。信教の自由、思想・信条の自由を侵害している」
 政教分離と一体の信教の自由や、権力の干渉に対する思想・信条の自由の問題ならば裁判所も理解しやすかったであろう。しかし、筆者流に言えば、「精神の自由」に対する侵害は、従来の宗教観の枠に呪縛されていれば、それこそ「カルト」に内在する人権揉闘は見えないのである。宗教事件の底には、信教の自由、精神の自由の問題が横だわっている。自由の範囲を拡大する問題なのである。(以上)


私の問題意識と、執筆者のそれとは相違するかもしれませんが、次の通りです。

自己決定権の尊重は、情報開示がされていることが前提です。自由に自分で選んで自分で決める。“自由に自分で選ぶ”という保証があってこそ、決定したことに責任を持つことが成立します。
もし“自由に自分で選ぶ”ことが、作為的にゆがめられていれば、自己決定に全責任を負うことも出来なくなります。

信教の自由も、“宗教を自由に自分で選べる”という保証があってこそ、選んだ宗教行為に責任を持てます。

ところがカルト教団は“宗教を自由に自分で選べる”ことそのものに、作為的にマインドコントロールを用いて誘導します。それが“「精神の自由」に対する侵害”ということなのでしょう。

もし国が、信教の自由によって、選んだ宗教行為に責任をもてというならば、信教の自由そのものを確保できる宗教的な環境を整える責任があります。

これは難しい問題を抱えています。たとえば、マインドコントロールによってオウム真理教に入信して、法律を犯した場合、先の論法から言えば、法律を犯した者が全責任を負う必要がなくなるからです。

感想は以上ですが、筆者の経歴紹介に「一九四七年東京都生まれ。大正大学文学部哲学科(宗教学専攻)卒業。現代宗教、カルト、山岳信仰、民俗宗教などの宗教取材に従事。著書に『オウム真理教事件』『霊能の秘儀』・『宗教事件の内側』など」とありました。筆者の本を読んでみようかと思います。
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