『真宗悪人伝』(2021/10/8・井上見淳著)の続きです。金子大栄師は『浄土の観念』という本で示した浄土についての思想に「異安心」の烙印を押され、大谷大学を去ることになるのですが、その金子大栄師の浄土の考え方を、標記の本の中から抜粋して紹介します。
『浄土の観念』の波紋
大正十四(一九二五)年に出版された金子大榮の『浄土の観念』(前年の日本仏教法話会における講演録)。すべてはこの一冊から始まりました。少し見ておきます。
この講演録における金子の問題意識は、自然科学による価値観・世界観が定着した時代にあって、「浄土」の教説の意味をいかに確認できるのか、という点に尽きます。彼ははっきりと言っています。浄土の実在について「到底信じられない」と。ただこの発言は彼が後に語ったように、いわば常識的見地からの実体的な浄土を排除するためであり、同時に教法が教える浄土の真の実在性を明らかにするためのものでした。両者を混同し続けることが如来・浄土を無視する現代の傾向を生じさせ、自身も苦悩したと思うが故でした。
金子は教法が示すその実在性を表す言葉として「観念」という語にすべてを託し、 吾々には見えないけれども見えるものの根本となっている世界がある。中略 私は之を観念界に於て説かれた浄土として置きます。
と述べます。彼はしばしば語られる実在世界としての浄土とは「吾々の狭い心でつくった浄土」であり、実はどこまでも「主観」の投影に過ぎない。そこでいくら自分に都合のいい幸せな世界を描いたとしても、それは必ず不幸を含んだこの世界と本質的に異ならない世界である、と言います。こうしてこの世界から、いかんとも逃れがたい自己を内観して見いたし絶望する時、その全体を照らし出した、「純粋」なる客観的実在世界、「観念の浄土」がそこに立ち現れてくると言い、縷々その浄土観を明らかにしています。
ところで金子は、生涯の課題となった浄土について、かつて問題視された自説を基本的な部分で曲げることはありませんでした。しかし老境に至った時、彼は「浄土」を「生死の帰依所(死の帰する所を生の依り所とする)」(『浄土の諸問題』)と平易に表現し始めます。それは「われらの本来の世界」として、浄土を「懐かしい魂の郷里」として頂戴する時、この此岸は「他郷」であったと知らされ、さまざまに経験した苦楽の人生も、思い出多き「旅路」となる。浄土は彼岸にあればこそ、いつも此岸の現実を支える世界として内観される世界だという意味を込めたものでした。またこの頃になると、「浄土」について「念仏者は実体的な浄土があると思うていても、扮えてそれを妄想として除かねばならぬ必要はありません。往生というも浄土というも几情のままでよいのであります。それが往生の真義でなく浄土の実相でないならば、念仏のこころがおのずからそれを感知せしめるでありましょう」(『浄土の諸問題』)と、実に豊かな包容力をもって説くようにもなっていました。(以上)
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