仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

手を合わせるための食事

2013年03月14日 | 日記
西方寺設立20周年を記念した本山へのお礼言上の小旅行は、楽しく思い出に残る3日間でした。
直接、御門主に「設立20周年を記念して、お礼言上のために上山しました」と申し上げると、「おめでとうございます」とのお言葉をいただきました。

当寺の旅行は、世話人がすべて手配してくださるので、いつもありがたく思っています。

旅行中、手を合わせ「いただきます」と、習慣のように行った食事の時、ふと思ったことですが、ひょっとして食事の時に手を合わせるということは、実は、私がいま、手を合わせるために、食材の品々や調理整えられたのではないか。手を合わせ「なもあみだ」と称える私が主人公であるということです。

その時、思い出したのが『ガマ仏』の話です。長い話で拙著『仏さまの三十二相』(朱鷺書房刊)から引用しますが、食材の品々にガマ仏の物語があり、その物語は私をして手を合わせるためのご苦労であったということです。

「山がそびえていた。その山のふもとに草原があり、川が流れていた。草原は牧場になっていた。その草原の草かげに、いっぴきのでっかい蟇(がま)が、岩のようにうずくまっていた。
 よく見ると、ぞっとするような醜いからだつきをしている。からだ全体がぶ厚そうな、でこぼこの皮膚で覆われて、大きな口や、その上にギョロっと突き出た目、それにもましてなんとも不気味なのは、背中一面に灰色の小さなイボが、かさぶたのようについていることだ。

 人間に見つかって、死にかかるほど、ひどい目にあわされることが、何べんかあった。とくに、蟇は牧場を歩き回っている山賊のような牛飼いの男を、恐れ憎んでいた。
 気が荒く、意地悪で、何をしでかすかわからない。人間のなかでも、人間扱いを受けていないような、恐ろしい男らしい。その男に見つからないように、蟇は、できるだけしげった草のむら深くに身をひそめながら暮らしていた。
 しかし今は、その男にも少しも恨み心を抱いていなかった。草かげに身を隠し、お釈迦さまのお話を聞かせてもらったからだ。何べんも聞かせてもらっているうちに、いつのまにかそうなったのである。そうなったことを蟇はなによりの幸せだと喜んでいた。

 まぶたを閉じ、じっとうずくまっていた蟇は、まぶたを開けて、ぎろっと目を光らせると、短い前足をつっぱって、からだを起こし、ごそっごそっとはいはじめた。いつもの時間になったからであった。
 その時間になると、いつもお釈迦さまはアナンを連れて、川のほとりの道をお通りになるのだった。そして、これも決まったように、そこにだれかがお釈迦さまの来るのを待ち受けていて、仏さまのお話をお願いするのだった。蟇は急いだ。

 だが、ごそっごそっとしたのろまな足では、なかなか思うように進めなかった。ありったけの力をだして、蟇は一生懸命にはい続けた。
 すでにお釈迦さまはアナンを連れて、いつもの所までお出ましになられていた。そして、二人の男がその足元にひざまずき、手を合わせている。お話をお願いしているのにちがいない。

 蟇は、あわててお声の聞こえる所まで近づき、草かげに身をかくし耳を澄ませた。ちょうどよかった。そのとき、やさしい、お釈迦さまのお声が聞こえはじめた。
 『ガンジス川の流れを、見てください。今、川の真中を、一本の丸太が流れていくであろう。あの丸太は、こっちの岸にもつきあたらず、人にもとられず、渦巻きにも巻き込まれず、壊れもせず、くさりもせずに流されていくならば、やがて海にたどりついて、そこで止まることになるだろうね』
 『はい』
 『修行をする者も、それと同じことだよ。あっちの岸、こっちの岸にもつきあたらず、人にもとられず、渦巻きにも巻き込まれず、壊れもせず、くさりもせずに修行を続けていくならば、やがて仏さまにならせて頂けるのだよ』

そこまで、お話を聞いたときだった。蟇は突然、背中を何かでぎゅっと押えられた。どうしたのかと思って、上をみあげた蟇は『あっ』と驚いて声をのんだ。
 あのけだもののような牛飼いの男の杖が、のっかっていたからだ。もう、逃れる手立てなどない。
『今度こそ、殺される』。そう思うと蟇の心はちぢにみだれ、とたんにお釈迦さまのお話が聞こえなくなってしまった。死にたくなかった。
 しかし、よく見ると、どうも様子がおかしかった。背中を杖で押えてはいるが、牛飼いの男は、そこに蟇がいることに気がついていないらしい。どうやら、お釈迦さまのお話に耳を傾けているように見える。
 そんなことってあるだろうか。平生、お釈迦さまのことをばかにして、くそみそに罵っているけだもののような男だ。間違っても、お釈迦さまのお話など聞くはずはない。
 それでも蟇はしばらく、注意深く男を見上げてみて驚いた。間違いなく聞き入っている。
 
平生が平生だけに、その顔つきは真剣そのもので、遠くからくい入るようにお釈迦さまのお顔をみつめ、ときどき頷きさえしていた。
 こんな嬉しいことって、あるだろうか。今、けだもののように気の荒いひとりの男が、救われようとしているのだ。
 熱心に聞き入っているせいで思わず杖に力が入るのか、杖は強く蟇の背中を押さえつけた。男は蟇に気がついていないのだから、ひょっとしたら逃げだせるかもしれない。だが蟇は、今は逃れようとする気などすっかりなくなっていた。

 いま動けば、せっかく大切な話を聞いている牛飼いの男の心をみだし、またとない機会を失ってしまうに違いないからだ。
 その杖はいよいよつよく、蟇の背中のイボのあるぶ厚い皮膚にくいこんだ。痛い。だが、ここでからだを動かせば、元も子もない。蟇は、大きな口をゆがめるようにして我慢した。
 そのとき、『ぷちっ』と小さな音がした。それと一緒に、背中全体にしびれるような痛さが走った。杖は皮膚を破って、肉のなかへ突き刺ったのだ。
 でっかいからだ全体が食い込むたびに、ズキンズキンと痛んだ。気を失いそうに、ぼうっとなった。それでも蟇は動きもしなかった。
 お前にできるたった一つのことは、岩のようにじっとしていることだ、と繰り返し繰り返しいい聞かせていた。まもなく杖は、蟇のからだをつらぬき、腹の下の土にぐさっと入った。
 そして蟇は、その醜いからだを杖に支えられながら、それっきりびくとも動かなくなってしまった。背中一面のかさぶたのようなイボイボは、たちまち色が変わり、いっそうぶきみであった。
 こんな尊い『死に方』が、どこにあるであろうか。」(以上)
 
『蟇佛』とは、仏さまのすぐれた特性を象徴的に説話によって表現したものですが、私がありがいと思うのは、私が阿弥陀仏のお話を聞かせていただく背後に、このような尊い仏さまの功徳、働き、思いやり、精進があったに違いないと思うからです。
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