goo blog サービス終了のお知らせ 

仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

在家仏教

2014年05月02日 | 日記
『在家仏教』2014.6月号が送付されてきました。私が今年2月に在家仏教協会で講演した講演録が20ページ掲載されています。題は「物語を生きる」です。
お寺では、8月に勤まるお盆のお扱いにしようと考えています。

一部分だけ、抜粋して掲載します。

「仏教の教えはとても分かり辛い」ということが言われます。なぜ分かり辛いのかと言えば、さまざまな要因があります。例えば「五種不翻(ごしゅふほん)」と言い、サンスクリット語やパーリー語の原典から漢訳するとき、元の意味を訳さないで、サンスクリット語やパーリー語の音に相当する漢字を当てている箇所が随所にあるため、漢字を見ただけでは意味の分からないことがたくさんあるのです。

例えば「阿弥陀」や「阿羅漢」などがそれにあたります。「五種不翻」とは、玄奘三蔵法師の約束事で、簡単に言えば〝名前などの固有名詞〟〝ひとつの単語の中に意味がたくさんある言葉〟〝言語のほうが響きが良い言葉〟〝すでに一般に使われている言葉〟〝翻訳すると真意が失われてしまう恐れのある言葉〟の五つの場合は無理に翻訳せず、原語のままを用いているということです。

 しかしそれ以上に、お経を分かりにくくさせているのは、〝私は分かった〟とか〝私は分からない〟といった自分の思い、自分の常識で考えようとするからです。お経の役割は、私の〝分かった〟という分別心(ふんべつしん)を木端微塵に壊すところにあるのです。

 例えば、「浄土三部経」(『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』)のには、「仏さまが笑う」という描写が二か所あります。
『無量寿経』の「東方偈(とうぼうげ)」という箇所に「時に応じて無量尊、容を動かし欣笑(きんしょう)を発したまひ」とある部分と、『観無量寿経』では主人公である韋提希夫人(いだいけぶにん)が阿弥陀仏の浄土を願ったとき、「そのとき世尊、すなはち微笑(みしょう)したまふ」というところがあります。普通に読んでいますと、〝ああ、にっこりされたのだな〟と理解してしまいます。これが、経典を読めなくさせてしまうのです。〝この笑いは何か〟と伺っていくことが大切です。

『大智度論』(『般若経』の注釈本)には、「笑いには七通りがある」と示されてあります。

すなわち、「笑うに種々の因縁あり。ある人は歓喜して笑い、ある人は瞋恚(しんに)して笑い、ある人は人を軽んじて笑い、或いは異事を見て笑い、或いは羞恥(しゅうち)すべきことを見て笑い、或いは殊方の異俗を見て笑い、或いは希有の難事を見て笑う。今はこれ第一希有の難事なり。衆生のために説いて解脱を得しめんと欲す。これ第一の難事なり。……これ難事をもっての故に笑う」と。

〝歓喜の笑い、怒りの笑い、軽蔑の笑い、変わったことを見ての笑い、照れ笑い、違った風俗を見ての笑い、稀有なことに出会ったときの笑い〟です。仏さまの微笑は今、稀有なことが起きていると伝えているのです。
お経が難しいのは、〝私の思いで理解しよう〟としてしまうところにあります。この私の執われを壊す。これがお経の役割なのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする