仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

日本人の無宗教

2014年05月21日 | 都市開教
築地本願寺で都市開教について話すこととなり、その講義ノートを見ていたら“宗教を軽く見る風潮が、日本人を無自覚的宗教から無宗教へ変質させた”とありました。

丁度先日、曹洞宗の住職を務めるドイツで生まれ育ちMPネルケ無方著『日本人には「宗教」は要らない』(ベスト新書)を、拾い読みしていたので“無自覚的宗教”について触れておきます。

結論から言えば、無自覚的な行為や考えは、その無自覚的なことが失われても、失われてことに気づかないので、無自覚的なことを一度、意識しておくことが重要であるということです。その意味では、こうした本も、意義があるのかなと思ったことです。

同書は帯腑に“この国の人々は日常生活の中で「禅」の教えを実践している”とあるように、日常生活の実践、家事や仕事を通して、身をもって自然と共生する生き方を無意識に実践している。…日本の学校では、給食の時に「いただきます」「ごちそうさまでした」を言い、部活動で仲間の大切さや協調性を体で覚え、自分たちの使っているトイレは自分たちで掃除をする。これは「禅の教えの実践である」という。
 「日本人にとっての宗教は空気をすって吐くように自然なもので」あり「他宗教に対しても寛容になれるし、宗教を理由に他人を否定する必要もない。宗教に無関心である日本人は、最も宗教的」だという。


阿満利麿著『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書)では、少し違った角度から、日本人の無宗教性を説いています。


宗教には、創唱宗教(特定の歴史上の人物が説いた教え)と自然宗教(人々の生活の中に自然発生的に生まれ存在している宗教)があり、日本人が無宗教と言う場合の多くは、自分か特定の創唱宗教の信者ではないということであり、自分かちの生活の中に当たり前のように存在している自然宗教的なものを否定しているわけではない。

明治以降に広まった日本人の宗教観の特色として、習俗や俗信となっているものは宗教ではないとする考え方があり、“宗教”の定義の違いが、「自分は無宗教」という日本人を作っている(意趣)とのことです。

やはり無自覚のものは、優れていれば優れているほど、そのことを自覚しておく必要があります。10年ほど前、広島県の住宅チラシを見て、建売住宅の見取り図に「仏」(仏壇を置く場所)の表示があることに、広島県の土徳を想ったことがありますが、現在、それがどうなっているか気になります。家庭に仏壇を置くことが、稀有なことなのに、そのことが当たり前だと、その稀有なことが失われても、失われたことに気づかない場合があるからです。
コメント
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