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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

首相の語る“いのち”って何だろう

2010年02月06日 | 生命倫理
鳩山由紀夫首相の施政方針演説は「いのち」という言葉が多用され24回に及んだと報道されていた。新聞報道にも、その演説の全容は開催されていた。その全容は、まだ読んでいない。

ふと今朝、星野富弘さんの詩を思い出して、首相の語るいのちってなんだろうと、演説を読みたくなった。この無関心が、日々を平坦で無感動にさせてしまうのだろうと、反省しながらこのブログを書いています。

いのちが一番だと思っていたころ
 生きるのが苦しかった
 いのちより大切なものが
 あると知った日
 生きているのが嬉しかった

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代理出産に思う

2009年11月26日 | 生命倫理
新聞(21.11.26読売他)に「子宮を失った女性(27)に代わって代理出産した実母(53)が25日、娘とともに東京都内で記者会見しました。国内で代理出産を行った当事者が、報道陣のカメラを前に会見するのは初めてのことです。」とあった。テレビの報道番組でも会見の様子が流れていた。

難しい問題を含んでいる。その中で一番の問題は、生まれてきた子が差別されない環境をどうつくっていくかです。法律の整備が整っていない状況下での出産は、それだけで子どもは異端児扱いされる。だから事実を公表して法的な環境整備を訴えることも考えられる。このたびの公表はこれにあたる。また自分たちは間違ったことはしていないという思いもあるだろう。

また出産の秘密を隠し、社会から守り、子どもが成長してその事実を受け入れられるようになってから告げることもあるだろう。現代の日本においては、幼児期の養子縁組だけでも、それを学童期において地域に公表したら差別の対象になり、子どもの負担も大きい。まして社会的に認知されていない代理出産となればなおさらです。

こうした生命倫理の関わることは、現実問題としては事の良し悪しと、その事実を受け入れられるほど社会が成熟(?)しているかどうかの問題がある。また未来に対して、どのような文化を築いていくのかという未来に対する責任もある。代理母出産が当たり前として行われる社会になって、失われていくものはないのかという視点です。

読売新聞は、このたびのケースを今後、詳細に報道していくとのことだから、注視したい。
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情報公開の裏いにあるもの

2009年10月11日 | 生命倫理
ディスクロージャーという言葉をよく聞く。企業内容開示と訳される。自己決定の尊重が重要視される社会にあっては、すべての情報が明らかになっていることが前提にある。

常日頃から官僚は、情報操作して自分に都合のよい方向へと導くと思っていた。やっぱりという記事が昨日の朝刊(21.10.10産経)に紹介されていた。

花田紀凱の週刊誌ウォッチング
八ツ場(やんば)ダム建設中止については前原誠司国交相が功を急ぎすぎている、まず中止ありきというのも如何(いかが)なものかと思っていた。
 が、そんな認識を改めさせてくれたのが『週刊朝日』(10月16日号)、保坂展人(のぶと)さん(社民党前衆院議員)のリポート「八ツ場ダムの隠された真実」。新聞報道だけではわからない複雑な事情を解き明かしている。
まず、「工事の7割はすんでいて、あと3割の予算投入でダムは完成する。中止はかえって税金のムダ遣い」というのは〈ダム官僚の詐術〉だと指摘。
 〈実は、「7割」というのは事業予算に対する「進捗率」に過ぎず、単に予算の7割を使っただけ〉
 あと1380億円でダムが完成するというのもウソで〈将来にわたる利息を計算に入れると8800億円という公金が費やされる途方もない規模となる〉。
 それより何より〈実は、何事も、もっともらしく説明する技術にたけているダム官僚が黙り込んでしまう“タブー”〉があるという。
 タブーとは何か?
 〈ズバリ、浅間山や草津白根山という活火山の存在〉。1783(天明3)年の浅間山大噴火のことを書いた報告書にこうある。〈火口から20キロ離れた八ツ場に、泥流は高さ50メートル、時速72キロの速さで押し寄せてきた〉
 詳細はぜひこのリポートをお読みいただきたい。(『WiLL』編集長)

やっぱり官僚は情報操作しているという思いで記事に接しました。20年前からの価値観の主軸ともいうべき自己決定権の尊重は、その前提となる情報公開と、ではどこまで自己決定の権利は及ぶのかという問題をはらんでいます。

自分が決めたことだからと言っても犯罪は言語道断です。法律に決めにくい道徳倫理が問題です。
 尊厳死(安楽死)の問題は、終末期医療費の問題が絡んで、急激な勢いである方向に向かっています。
家族の1分でも長く生きてほしいという願いで色々な治療がされ、それが500万円、1千万円の金額になる。この死ぬ間際の延命のための医療費が1年間で1兆円に届くとも言われています。
そこで国としては、緩和ケア病棟や老人病院での臨終、また延命治療の放棄(尊厳死)を促しています。それと相まって尊厳死協会は、死ぬ権利の(HPよりー日本尊厳死協会は、安らかな、人間らしい最後を迎える権利を求める一人一人が集まり、ともに終末期医療での「自己決定権の確立」をめざして活動しています。)獲得をめざして活動を進めています。最終的に「ボケたら安楽死」まで射程距離にあるようです。

そこで自己決定権は、どの範囲まで許容する文化が、日本のあるべき姿なのかという議論となります。長くなるので結論だけにします。
私は死の自己決定には相入れません。人間の知性は自分の死をゆだねるだけ確かなものなのか。(人間の知性は信頼できない)それと死を自己決定することは、いのちの私物化であり仏教的考えにそぐわない。また苦しみからは何も生まれないという考え方が尊厳死の基礎にあるからです。

また尊厳死協会自体、死を自己決定するという際どい人権運動なのに、安らかな生をといったオブラートに包んで活動を推進しています。まあそれが戦略なのでしょうが。
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脳死法案の可決

2009年07月14日 | 生命倫理
昨日(21.7.13)、脳死を人の死とする法案が国会で可決した。このことが日本の歴史の中でどのような意味を持つのか、それを判断する能力も時間もない。臓器提供を受ける側の論理、与える側の保護、何を基準にするかによっても判断は分かれる。

私は脳死を文化の問題だととらえている。死はプロセスであり、どこの時点をもって死とするかは文化の問題です。

人は心臓死から個体死へと時間が流れていきます。脳停止は、3分以内なら通常、正常に機能します。大脳皮質は5分を過ぎると人は植物状態となり、しかし生存は可能です。脳幹は、10分で脳死、心臓の電気活動は15分、瞳孔収縮力30分、腱反射(3時間)・角膜(12時間)・皮膚(48時間)・動脈(72時間)・骨(72時間)と個体死に向かいます。

自然の営みの中で、生と死をどこの時点でと分けかという必要性はありません。しかし人間社会では生と死をどこかの時点で線引きをしなければならない。すなわちこれは人為的な営みであり、心臓死であったり、細胞レベルでの死であったり、その時々の文化によって変わってきます。

このたびの脳死を人の死とする営みは、「見て触って」という主観と感情によって死を見てきた文化から、機械や客観的なデーターで死を判断するという、客観的・科学的な基準を大切にするという文化へと移行です。

考えてみると小中高と学校教育でも、楽しい悲しい嬉しい、好き嫌いなどの主観は大事にされず、花の美しさよりも化学記号、問いよりも答えといった、主観的な個性的な側面よりも、客観的、みんな一律を大事にしてきた。その極まりが脳死を人の死とする考え方です。

もっともっと主観や感情を大切にする文化であって欲しいというのが、私の考えであり脳死を人の死とする法律への思いです。脳死を人の死とする立法は、すべての人に強要されるのではないようだが、みな一様に脳死が人に死となれば、これは一つの暴力です。
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いのち尊し?

2009年05月11日 | 生命倫理
ネットでいいものを見つけました。それはNHKこころの時代の講演録(http://hk-kishi.web.infoseek.co.jp/kokoro-mokuji.htm)です。お試しください。

いのちはなぜ大切なのか。いろいろな答えが返ってきそうです。「いのちは一つしかないから」「いのちに限りがあるから」「先祖から受け継いできたものなのだから」などなど。でも~だから尊いという図式では本物の尊さは手からこぼれ落ちてしまいます。~だからは有限性の尊さです。~だからが失われるとき、その尊さも色あせていきます。

『意識の進化とDNA』(集英社文庫)に、科学書でありご自身の言葉で般若心経をかかれ話題となった柳澤桂子さんは、「「本来の自己」とは、三十六億年の歴史を背負ったDNAであると考えるに至った」と言われています。まあこれは長いからという意味ではなく、自己の知性の及ばない神秘的な生命体であるということでしょうか。

産経のコラムに以前、こんな文章を寄せたことがあります。

ダイアリー

 人はみな心にダイアリーを持っています。そのダイアリーを仏教ではアラヤ識(仏教で語るもっとも深い潜在意識のこと)と言います。スイスの精神分析学者であるユングは「集合無意識」として個人の体験は蓄積されるとも語っています。人の行為は日記帳に記さなくても、心の底に記憶されていきます。
近年では、その心のダイアリーの親玉が遺伝物質DNAであると言われています。

 私はこのDNAについて、興味を持つことが二つあります。
 一つは、人間も生物もバクテリアも同じ遺伝物質により成立していることです。仏教は「一切衆生悉有仏性」(すべての生き物が仏となる可能性を持っている)と説いてきました。人間のみならずすべての生き物は、遺伝子レベルでは同質量のいのちの値打ちであるということです。

 それとDNAの発見までは、生命現象を、物質と異なるある種の優位性を持つものと考えられてきました。ところが、遺伝物質の領域では、生命現象は物質現象の一つの表現にしかすぎないと聞きます。これも仏教で「一切草木国土悉皆成仏」と説いてきたことに符合します。人に限らず草や木も土さえ仏と同じ輝きを持っているということです。

そこで二つの提言です。まず、西洋文化の常識では、人間は生物や物質に比べて特別な存在であるとしてきました。それが人類のおごりを生み出しました。これに近代以後の日本人も同調してきたのです。遺伝物質が明らかにしてくれてように、人はもっと他の生物や無生物に対して謙虚になるべきです。
 それと命の尊さです。遺伝物質という客観的な事実の上では、犬も石ころも同じ命の値打ちです。ではどこで私の命の尊さを押さえるのか。私たちは命の尊さを「~だから」「~だから」と、客観的のものへ求めすぎてきました。もっと「尊いと思える」ことを大切にすべきです。尊いと思えるか、思えないか。同じ命でも、ここに雲泥の差があります。人間教育とは、その人の思いを育てることです。 (以上)

以上は10年前のわたしの考えです。しかし今は少しだけ考え方が進化しているように思います。どう進化したかと言えば、「尊いと思える」→「尊いこと(もの)に触れていく」というものです。バクテリアにしろ人間にしろ、その生命体を通して尊いものに触れていく。この方が落ち着きます。
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