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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

新インフルエンザー38億年の生命体

2009年05月10日 | 生命倫理
先月中旬より新型インフルエンザが報道されない日はない。インフルエンザと人類の関わりは古く、古代エジプト時代にはすでにこの感染症があった報道にありました。

このインフルエンザウイルスの生命体の歴史も38億年あるようです。もちろん38億年前は、ウイルスの形になっていません。

生命体の歴史を表現するとき、35億年といった場合は、箱根の地球博物館にも展示されている西オーストラリアでは世界最古の生命体の化石を基準と年代表記です。細胞がいくつもつらなった化石や、べん毛状のものなど、何種類もの化石があり、すでに進化をとげているとあります。
生命体の歴史を38億年という場合は、化石は見つかっていないが、生命の痕跡を示す化学的な証拠がグリーンランドの約38億年前の地層から見つかった生命体の痕跡を基準としています。


生命誌絵巻という生命の進化を表現した扇形の絵があります。生命誌の提唱者である中村桂子(生命誌研究館館長)が、一つ生命体より時間の関係性の展開の中で多様な生きものとして今日至ったことを示す新しい表現法です。普通進化の図は、古いところにバクテリアなどが描かれていて、それがだんだん進化して頂点にヒトが描かれています。微生物があって魚となり、脊椎動物となり、サルとなり人間となったという縦の生命図です。生命誌絵巻は、バクテリアもヒトも生命誕生38億年生きてきたものとして同じ位置に描かれています。バクテリア38億年の歴史をゲノム(すべての遺伝子情報を持つ体細胞)の中に持っているし人間も同様で、微生物も猿もクジラも豚も人間の、一つの生命体からいろいろな関係性を持ちながら38億年の歴史を刻んで今日に至ったことを示しています。だから新インフルエンザウイルスの生命体のゲノムにも38億年の歴史が刻まれているはずです。

人間は一生の間で、突然変異して別の生命体に変ることはありません。ところが新インフルエンザウイルスの特徴的なことは、全く別物でないにせよ、違った性質を持つウイルスへと短期間で変異するということです。人間も変異する時間軸が長いだけで基本的にな変わらないのでしょう。

こうした報道に接して思うことは、お説教される方がよう「私は過去に何度も生まれ変わって今日に至った」と言われます。あれはまんざら嘘ではないということです。わたしの一つ一つの細胞の中にあるゲノム(すべての遺伝子情報を持つ体細胞)には、38億年の歴史が刻まれているのですから。

それと新型インフルエンザの報道があった初期に寝床の中でふと思ったことは、仏教では新インフルエンザウイルスという生命体の命の尊さと私の命の尊さが同じなのか違うのか、そのあたりをどう解釈しているかということです。(続く)
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違法阻却事由

2009年05月09日 | 生命倫理
何が中国の文字のタイトルをかきましたが、これは法律用語のようです。昨日の新聞(読売)に

世界保健機関(WHO)が海外に渡航しての臓器移植の自粛を求める新指針採択を先送りする方針を決めたことについて、与野党からは8日午前、WHOの方針とは関係なく今国会で臓器移植法改正案を採決すべきだとの意見が相次いだ。

とある。脳死の問題は、私の中では一応の解決は付いている。といっても10数年前の考えですが。論議はわたしのホームページ(http://www.jade.dti.ne.jp/~otera/nousi.htm)に譲るが、

結論は、脳死は認めず、脳死者からの移植を許すという「違法阻却事由」です。「違法阻却事由」とは、正当防衛・緊急避難・正当事由のように、「刑法上、構成要件を充足し、違法として推定される行為について、例外的に違法性を否定する根拠となる事由」が、違法阻却事由と言われているものです。殺人であってもその罪は問わないことです。

しかし医師はこれには反対のようです。脳死患者からの移植は殺人であるが、罪は問わないでは、居心地が悪いらしい。私は医師の居心地の悪さよりも脳死の肯定によって、「見て触って」という主観と感情を大切にし死を見てきた文化が失われる方が、日本にはマイナスだと思っている。脳死は確かに生きているのに、それを死んだことにするといった感性を大切にしてきた日本文化に逆行するものです。客観よりも主観を大切にする。知性よりも感情に重きを置くのが仏教の方向でもあります。
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病理の原因は物の豊かさ

2009年03月11日 | 生命倫理
 築地別院に奉職していた30年近く前、毎月、厚生省から「厚生」という月刊誌が送られてきいました。その紙面の中で2つほど、記憶にとどめている記事があります。1つは、山岡鉄舟の逸話、これは拙著「ありのままに自分を生きる」(徳間書店刊)に掲載済み。もう1つは、統計学の話です。

 世の中で成功したといわれる実業家の幼少年時代、半数は恵まれない境遇であった。おそらく刑務所で刑を受けている収容者にアンケートを取っても同様な数字になるに違いない。成功するか堕落するかは境遇のよしあしではない。

 といった記事でした。残念ながら境遇ではなく大切なものは何かの部分は失念しました。

 現代の病理がいろいろと語られるなか、その原因は「物の豊かさ」にあるといいます。豊かさが欲望を刺激する社会を作り、人は競って利潤・効率・便利さを求める。快楽はあたりまえのようにころがっているので、苦労してあるいは恵まれて「よろこび」「嬉しさ」は感じるといったこととの無縁となる。富裕化の進展は、家族が協力して日常生活を送るといった家族機能の外部化をもたらし、その結果家族関係をバラバラとなる。社会の公益を優先する生き方から自分のニーズや価値を優先する生き方へとなり、その結果、みんなが孤立し空しく仮想の生きがいを求めてその日暮しをする。これが現代の特徴といったところでしょうか。

 ではその処方箋はといえば、病理の原因である物の豊かさにおぼれることなく、欲望を制御し利潤や効率優先ではない人間関係や場所、考え方を大切にすることに尽きるようです。

 数か月前「マクドナルド化した社会」21世紀新版(ジョージ、リッツア)を読みました。マクドナルドが象徴している便利さ、効率、計算といった人間の機械化は、人心を滅ぼすといった本でした。脱マクドナルド。不便さや非効率、個性重視の社会を提案していました。

 まさに本来の寺院の機能は脱マクドナルドでなければならないのですが、現実は効率と便利さ重視の傾向にあります。まずは病理の原因を見つめること。これはわたしの思いです
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