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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

心臓移植患者の出産

2010年10月14日 | 生命倫理
早朝のウオーキング、闇に歩を進めると小雨が降り出してきた。今日は中止と引き返し、新聞(22.10.14、産経)を開く。読み進んでいくと「脳死移植を受けた女性が出産 国内初」という活字が飛び込んできた。内容は読んでいないが、タイトルだけで理解できた。

ふと思いがよぎったのは、新聞記事からの連想で“脳死患者女性が出産、国内初”というものでした。移植を受けた人ではなく脳死患者が人工授精して出産する。理論的には可能なはずです。しかしそれは許されるのか。疑問符がつきます。

拾数年前、米国で死後30時間(確かこの数字だったと思う)後の男性から精子を採取して受精、そして出産したという新聞記事が掲載されていた。現在ならば生命倫理のモラルがある程度整っているので許されないかもしれない。

生命倫理というものは常に社会と共に変わります。江戸時代に輸血という技術があったとしても、血液を他人に移植することは、おそらくおぞましいく吸血鬼のような印象を持つことでしょう。

命の操作に関する生命倫理の問題は、皆が知恵を出して今という社会においてあるべき姿を考える視点が重要です。ともすると“仏教では”と、仏教の物差しで賛否を下しがちですが、仏教の視点に立って、日本の文化はどうあるべきかという土俵で語るべきでしょう。

私の出産に関する視点は、どのような出生であっても良ですが、生れてきた子どもが、あまりにも奇異な出生ゆえに差別を受けたり、誕生とその後の経過が実験的な要素があるのならば、今という文化においては許容すべきではないというものです。
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都合の悪いことを隠ぺいする社会

2010年09月17日 | 生命倫理
子どもが昆虫を殺すことの意味を以前このコラムに書いた。再放送であったが今日の「明日へのことば」“虫と遊び、虫に学ぶ(2)虫の詩人の館・館長 奥本大三郎”を聞いていて、人間の命に対する感性は、無造作に昆虫類を殺してしまう中に、身についていくのだろうと思った。

大人になって子どものころを振り返って、「なんという無残なことをして」という痛みをもつ。その感覚も大切です。何よりも害虫は平気で殺しておいて、好まれる虫類は“命を大切に”と飼う現実。これでは暗黙のうちに“自分の都合”を大切にしているにすぎない。ますます自分中心と言うエゴイズムが育っていく。

子どものときに「昆虫採集」としてしっかり昆虫を殺しておくなかに(?)、生命とは何かが体験的に身につくように思われる。その生命感は、害虫、益虫という自分の都合を超えて、一律に生命ある生き物と言った感覚です。

また虫を殺すことのできない大人も、他人にやっつけてもらって自分は殺さない側に立つ。ここに都合の悪いことを隠ぺいする心が生れていく。

現代の日本社会には、この“都合の悪いことは見ないことにする”という隠ぺいを肯定する風土がある。これは“きれいごと”だけを重要視するマスコミや社会となって人びとの心を汚染していく。

浄土真宗の「悪人こそが救いの目当て」という教えは、人間の悪の部分に光を当て、その悪の部分を肯定していこうとする考え方です。この浄土真宗の悪を隠蔽しないという考え方は、現代社会へのメッセージ性を持っています。私も含めて、それを表現する人がいないことが悔やまれます。
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思考停止という病理

2010年07月17日 | 生命倫理
早朝のウオーキング、数か月ぶりに朝焼けと日の出を見た。日の出が遅くなってきたことを実感した。ここ柏での丘の上に昇る日の出は4時35分くらいだろうか。

深夜便「明日への言葉」集団自決 連鎖の背景という題で、ノンフィクション作家・画家 下嶋哲朗さんの対談であった。世界に例を見ない集団自決、明治から終戦までの一貫した国に命をささげるという教育、それと鬼畜米という憎しみを煽る教育が集団自決という悲惨を生んだとのこと。

集団自決は、沖縄だけではなく、グアム、サイパン、また旧満州でも多数起こっている。それがいまだ調査されていないという事実を訴えておられた。

対談で印象的だったのは、当時、運動会やその他の学校行事で常に『もも太郎』の歌が流れていた。もも太郎の中に出てくる鬼が鬼畜米で、鬼を追撃するという思想が刷り込まれていった。そして鬼畜米が上陸してきた。こんどは鬼畜米に抹殺されると集団自決におよんだ。

昭和29年生まれの私には、集団自決とのつながりはない。だが一点だけ自決についての接点がある。
故東條英機は、A級戦犯七人のうちの一人として、巣鴨プリズンにおいて昭和二十三年十二月二十三日に処刑されている。
 昭和二十九年、戦犯の遺族によって「白菊会」が結成されます。しかし、同じ戦犯の遺族でも、命令した側と命令された側という意識が根底にあり、その「白菊会」でも、A級戦犯の遺族たちは肩身の狭い思いをされたようです。
 そんなこともあってか、A級戦犯の遺族だけで「七光会」をつくり、交友が持たれます。それがいつの日からか毎月二十三日(東条英機の命日)に、用賀の東條邸に集まって茶話会がもたれるようになりました。
 昭和五十五年十二月、築地本願寺で故東条英機の三十三回忌法要が営まれました。そのご法事が契機となって、毎月二十三日に用賀のお宅での、月参りが始まりました。同五十七年五月二十九日に勝子夫人が亡くなられるまでの一年半、「西原さんに」とのご要望もあって、わたしが専任で、ご仏事と茶話会にお参りをさせていただきました。

その茶話会で東条英機がその用賀の邸宅で銃による自決を遂げようとしたとこのことを伺ったことがあります。「アメリカの憲兵に踏み込まれた時、英機は常に部下に語ってきたことを実行しようとしただけです」とのことでした。“生きて恥をさらさず自決せよ”というものです。

教育というものは、状況によって思考停止をさせてしまう危うい面があります。それは人を物として使おうとするに国にとってはこの上もないことです。

この“思考停止”は東条英機の上でも起こったし、集団自決の場面でも起こったのだと思います。戦争は悪であるが、それ以上に勝ち負けだけが唯一絶対の価値観であるという思想の濁りの方が罪は深い。そう思います。
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口蹄疫殺処分ー命を考える機会

2010年06月02日 | 生命倫理
昨日の朝刊(産経22.6.1)に「感染が拡大する口蹄(こうてい)疫で殺処分された牛や豚の冥福と、畜産農家の復活を祈り、宮崎県川南町の町立東小学校の児童が、千羽鶴づくりを進めている。」と写真付きの記事があった。

冥福を語らない浄土真宗だが、であれば何ができるかなーとぼんやりと新聞を読みながら思った。龍谷大学の講師控室で数人の講師の間で話題が口蹄疫の話となった。ひとりのご講師が学生たちに次のようなことを語ったら、涙していた学生もいたと話してくれた。

このたびの口蹄疫によって何万頭という牛や豚が殺処分された。口蹄疫のことがなくても、これらの牛や豚は同様に殺処分され、スーパーなどにパック商品となり並んだことだろう。一頭の牛が小さいときから飼われ大きくなり、そして売られていく。そのとき牛を育てた酪農家は、愛情の思いを断ち切り、生計のために仕方ないと痛みと感謝をもって送り出す。私たち消費者は、食肉として口に運ばれる肉にまつわる思いや歴史を考えることなく、うまいまずいといって感謝の思いすらもつことがない。…

そんな話を20分されたという。その講師の話を聞きながら、このたびの口蹄疫の出来事が小学校などで「命を考える」、そんな機会になればいいのだがと思った。
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正しさへの固執

2010年04月10日 | 生命倫理
職業病というものがある。先日、ふと医師の職業病について思った。医者は毎日、「ここが悪い、こうしなさい」と悪を指摘して正しさを告げているので、自然と自分は正しいという価値観が身についてしまう。命に関わることなので正しさが身についていないと困るのだが、日々、不断に正と邪をジャッジし続けなければならないのだから、自分は正しいという思い込みが刷り込まれ、それが現実を見せなくしてしまうこともある。


埼玉医科大学客員教授である武田文和氏は、1982年から2000年まで世界保健機関(WHO)がん専門家諮問委員としてがん疼痛対策の分野を担当し、がん疼痛治療法普及のために発信続けておれる方です。その武田氏が、『がんの痛みの治療の真実』(春秋社刊)で、日本の医師のモルヒネ(鎮痛剤・麻薬)に対する認識の低調さを問題にされている。


「痛みを感じている状態でオピオイド鎮痛薬を用いても依存は生じない」という新しい知識が医学や薬学の教科書に記されるようになったのはごく最近のことで、今でも十分に周知されたわけではありません。
 いまだに古い教育の影響から抜け出すことができない医師がいて、モルヒネを処方することにためらいを感じています。(以上)

オピオイドとは「ケシの樹液」を意味するギリシャ語で、アヘンのことです。そのアヘンを成分とする鎮痛剤がオピオイド鎮痛薬です。そのオピオイド鎮痛薬が疼痛治療に正しく使われていない現実を指摘しています。新しい認識を妨げる障害の一つが「自分は正しい」という正しさへの固執であるところが、人間の不完全さが見え面白いと思う。

これは医師だけではなく教師や僧侶にもあてはまることです。
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