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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

生命を尊重する理由

2012年07月06日 | 生命倫理
『寺門興隆』(2012.7)に、大阪教育大学院教授の岩田文昭氏が「学校で生と死はいかに教えられているか」を執筆されていました。

1951年自宅で死亡する人82.5%、2010年自宅死亡者は12.6%、1949年施設外(主に自宅)で誕生する割合は96.4%、病院など施設で誕生は3.6%、現在では自宅で誕生する人は0.2~0.1%、いのちの誕生と死が見えなくなっています。

文章から要になる部分を転載します。

いのちを尊重する根拠は何か
 ところが、ここに難しい問題がでてきます。「いのちの教育」に関する原理的な問題です。それは「いのちを尊重する枇拠」という問題です。小中学生にいのちを尊重することを教えることに多くの人に異論はなく、教育関係者もそれを教えることを積極的に推進します。しかし、その恨拠になると判然としません。いったい、どのような枇拠が考えられるでしょうか。小学校の道徳授業のために、教科書会社が先生用の資料を出しています。その中に生命尊重の根拠として次の八つのことか挙げられています。


≪生命を尊重する理由としては、
① 無条件の価値を持つ人格の基礎だから
② 生命は不可知なものだから 
③ 生命は一回限り唯一固有性をもち、有限だから
④ 生命は宇宙開始以采の連続性をもつものだから
⑤ 生命は他の動物・植物の生命を犠牲にして成しするものだから 
⑥ だれでも 「生きたい、死にたくない」という欲求をもっているから 
⑦ 周囲の人々の「生きてほしい」という願いがあるから
⑧ 生命を勝手に左右してはならないという宗教的要請があるから
 などが考えられる。発達段附に応して理解させた≫「小寺正一・藤永芳純他編『小学道徳生きる力』(教授用資料)大阪府版3年ー大阪書籍(以上転載)


執筆者の結論らしきものは“学校教育ができるのは、「いのちを尊重する根拠」そのものを教えることではなく、このような問いを問いとして育むことなのです”とあります。

執筆者の考えに賛同します。どうしても「いのちの尊重する根拠」を伝えたくなりますが、先に示された根拠を、そう思えることが重要であり、単に“~だから”と根拠をしましたとしたら、“~でないから抹殺”という根拠となってしまいます。
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3つの死の自己決定

2011年09月07日 | 生命倫理
8月29日のブログへ質問をいただきました。こうして質問をいただくと、書き手の私は、書いて公開する以上は、時間がなく熟慮していないとか、弁解がゆるさなないということを思いました。

単純に質問です。
まず、自殺と安楽死の定義がよくわかっていないのですが・・
自殺には「凡夫の知性は、死を選べるほど確かでない」「命は自分のものといった理解があること」はあてはまらないのでしょうか。
また、安楽死をされた親族や友人、知人、関わった人にもその件を通して「阿弥陀如来の信心を開発していく縁」となり、阿弥陀如来の働きは、安楽死の姿の上にも味わうことができると思うのですが・・どう違うのかなあ・・
すみません。(以上)

私の理解ですが、自分の死を選ぶ(死の自己決定)ことについて、3つの分野が現代の問題としてあります。

法律で許されている死の死の自己決定権として、

改正臓器移植法が、2009年7月に制定されましたが、改正前は、臓器移植希望の本人の意思が書面(ドナーカード)で示されることが条件でした。つまり脳死状態になったら脳死という死を選択するという死の自己決定です。この死の自己決定は、民法の「遺言能力」の規定によって、15歳以上しか認められていないため、この度の改正では「本人の意思」という条件を外すことで、15歳以下、同意能力のない幼児に至るまで臓器提供のドナーにすることが可能になったのです。


次の死の自己決定は安楽死です。「日本尊厳死協会」は、「脳死」よりもはるかに広く「意識不明」状態や性植物状態になった場合は、延命治療(とくに人工呼吸器)の停しにを認める法を作ることを目指しています。


一般社団法人日本尊厳死協会定款の(目的)に
第3 条この法人は、健やかに生きる権利、安らかに死ぬ権利を守ることができる社会の実現をめざして、尊厳死思想の理解と普及をはかり、ひろく市民の人権の確立とその尊重に寄与することを目的とする。(以上)

とあるように、日本尊厳死協会の目的は、死の自己決定権を確立する人権運動です。現在のところ最終的には痴ほう状態になったら死の自己決定できる環境をめざしています。

しかし現在、安楽死が例外的に認められるのは、司法が示した4要件です。

四要件とは、◇患者の絶え難い肉体的な苦痛 ◇死が避けられず、死が切迫 ◇患者の肉体的な苦痛の除去・緩和するために代替え手段がない ◇患者の明確な意思表示です。

死の自己決定に絡む問題として3番目に自殺があります。自殺を肯定することは、現在の日本では通常の場合、法律、倫理共にありません。ところが安楽死は法律で認めようという運動があるので、それに対して質問にあるように“「凡夫の知性は、死を選べるほど確かでない」「命は自分のものといった理解があること」”という安楽死否定の根拠を述べたものです。自殺は、上記の根拠を述べるまでもなく、否定する社会がすでにあります。

質問の“阿弥陀如来の働きは、安楽死の姿の上にも味わうことができると思うのですが・・”ですが、阿弥陀如来の働きは味わうことができるからあと言って、社会的に自殺そのものを肯定することはありません。

ところが安楽死は死の自己決定権という人権運動が絡んでいるので、「味わえる」という部分よりも「その権利を認めることの可否」の部分がより重きがおかれるのです。「味わえる」ことが、そのまま安楽死肯定の方向へいってしまう可能性があるということです。

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命を絶つことへの恐れ

2011年08月01日 | 生命倫理
中外日報という宗教業界新聞があります。23.7.26日の社説は、導入は下記のような言葉でした。(以下転載)

真宗王国の広島県を、2回にわたって訪れた。最初の訪問地の福山市で、A住職から話を聞いた。「この地方は木綿織りの備後絣が盛んだった時代かおりますが、絹織物産業は発達しませんでした。仏教徒として、蚕の命を奪うに偲びなかったのです」
 続いて西部の広島市では、安佐北区のB住職から、次のように教えられた。「この地域ではヤママユ(山繭)産業が発達しました。山繭とは、蚕が成虫になった蛾が飛び立った後の破れた繭です。蚕を殺さなくても絹糸を採ることができました」
 山繭は広島県のこの地域と、長野県の一部で生産された。現在は合繊に取って代わられたが、山繭をかたどった上品な和菓子が今も売られている。(以上)

私も以前、浄土真宗の盛んな広島では蚕の養殖がなかったという論文を読んだことがあります。その論文は、国会図書館からコピー請求で送ったもので、良く知らべれば家にあるはずです。

その論文は、江戸時代の広島で赤ちゃんの間引きに関する論文でした。その論文には赤ちゃんの間引きをしなかったのは、“いのちは尊いから”といった甘いものではなく、その地方に伝承されていた「命を断つものは地獄へ落ちる」といった因果応報の考えが文化として定着していたというものでした。

その論文を読んだ時は、“地獄の落ちる”という現代考える浄土真宗とは、異質な感じをもちました。

しかし今日、先の蚕の話しを読んで、「命は大切」といった甘い言葉ではなく「命の対するある種の恐れ」の方が重要であるという思いをもちました。

仏教の因果応報、「殺したら地獄の落ちる」という言い方は、「殺すということは地獄の落ちるほどの罪悪である」という今を明らかにするものです。決して、未来に地獄という空間に行くと言ったおとぎ話ではありません。

「命を抹殺することへの恐れ」これこそ重要です。
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宝石は自分では輝けない

2011年02月14日 | 生命倫理
一昨日の早島理先生の話。先生は仏教哲学を専門にされておられるようです。お話しの最後に「帝釈天の網」の話しをされました。帝釈天の網とは、インドラ網とも言います。インドラ(帝釈天)の宮殿にかかる網のことで、網の結び目にそれぞれに宝珠がついていて、その一つひとつが他の一切の宝珠を映し出すという深遠な世界を示し、一つの宝珠に宇宙のすべてが収まるというダイナミックな生命観を示した梵網経にある話しです。

その網の結び目についている宝石の光について、重要なことを2つ示されました。

1つは、宝石は自分自身では輝くことができないように、いのちは自分では輝けない。2つ目は、光は自分自身を照らすことができる。眼は眼自身を見えることができず、力持ちでも自分を持ちあげることはできない。色々なものを握りしめることのできる手も自分を握りしめることはできない。あらゆるものは無能力性(?)と一体になっているが、光だけは光自身を照らすことができる。

先生は、「阿弥陀仏を光にたとえているのは重要なことです」と言われました。いま思いに、2つの大切な要素は、「救わずば正覚を取らず」と誓われた阿弥陀仏の誓願の中に、自分だけでは輝かないという法則と、光の如来のなると願われて妙味を、ぼんやりと“ここに、すこいものがありそうだ”という予感を感じます。
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覚りはActuality(アクチュアリティー)だ。

2011年02月13日 | 生命倫理
昨日(23.2.12)の「がん患者・家族語らいの会」ゲスト講師は、滋賀医科大学医学部教授である早島 理氏でした。先生は北海道の本派寺院(後志組大成寺)のご住職であり、医師ではないがインド仏教の立場から大学の生命倫理委員や医療者に対していのちのありようを講義されている先生です。

いのちのとらえ方を、医学生にもわかるように工夫されて説かれていました。ゲノムの話しや生死の話しなど、貴重な話を聴くことができました。

印象に残っている話は、ゲノム(ある生物のもつ全ての遺伝情報物体)には、3本柱があり①生きていく力、②性―命を繋いでいく力、③死んでいく力の3つが基本となって成り立っている。手でも母体の中で最初はグーであるが、指が伸びていき、ある部分の細胞は成長を止め(死)るので、指と言う凹凸ができる。細胞が成長を止める、死ぬことがプログラムされているということが重要である。

いのちを見る視座は、Reality(リアリティー)とActuality(アクチュアリティー)があり、実際に見て触ってという現実と感じるという認識がある。Actuality(アクチュアリティー)は死の世界まで及ぶ。覚り(救済)の世界はActuality(アクチュアリティー)の認識である。

などなどでした。ゆっくりとそしゃくしてみたいところです。
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