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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

IPS細胞

2013年04月16日 | 生命倫理
宗教業界新聞『中外日報』(25.4.4号)に、以前は滋賀医科大学 医学部 教授であった早島理氏(現龍谷大学大学院特任教授)が「仏教の生死観・生命観とiPS細胞」というタイトルで執筆されておられました。

特筆すべき点は、生命の問題は、生命倫理委員会だけで無理があるとする点です。そして下記のようにあります。

先端医療が発展するほど、「いのちの意味」を問い続けることの重要性が指摘されてきているが、その任務を生命倫理のみに預けることは、その成立過程から見ても無理がある。生命倫理はもともと「生命の構造・機能」の分野に付随して成立してきた背景があるからである。この問題を考えるときは、人間の生存欲望を肯定する立場から、そして何よりも「生」のみを扱う生命倫理とともに、生存要望の抑制をも視野に入れ「生・死」(しょうじ)の両方を論じる宗教の視座、具体的には仏教の考えとの両方が必要であると考える。「死」の根底に踏まえてこそ「生」の意義があらわになるからである。(以上)

長く生命倫理にかかわってきた方だけに、問題の突っ込み方が学問的です。それは“生の欲望を肯定的にみる”という倫理の問題点を指摘して、仏教の土俵を際立たせている点です。そして結論は下記の通りです。

(1) 生命科学に携わるすべての研究者もそしてマスコミも、この・IPS細胞による治療やNIPT(新型出生前診断)がもたらすメリットだけでなく、世代を超えて何か起こるかわからないことのデメリットをも隠すことなく情報提供する責務かおるだろう。(2) 一方私たちは「夢の治療方法」などのうたい文句に踊らされることなく、このメリットーデメリットの情報や議論を踏まえたうえで、生老病死みないのちの視点から「生き抜く力」と「死に逝く力」のバランスを一人一人が選択する覚悟が必要となるであろう。そして(3)そのことが「いのちの限りを生き抜き、心おきなく死んで逝く」というあたりまえの生き方を可能にするのではなかろうか。(以上)

生きることへのプラスだけではなく、死んでいくという事実も踏まえて、この問題をどう考えるのかが問題だといっています。確かに「死を遠ざける」だけの医療であれば、死への敗北感を助長するだけに終わります。

ということは、生命倫理を考える上でも、世界保健機関(WHO)憲章で示される健康の4つの定義、

 1)physical health(肉体的な健康)
 2)mental health(精神的な健康)
 3)social health(社会的な健康)
 4)spiritual health(直訳:霊的な健康)

 とある、スピリチュアルな面も入れて検討しなければならないということでしょう。
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自然に対する畏敬・畏怖の念

2012年12月25日 | 生命倫理
昨日の続きです。私が引っ掛かっているのは、ES細胞の倫理的な問題は、受精卵より発生が進んで、いずれヒトになりうる受精卵を破壊する事への疑義です。しかしこの度の、IPS細胞の研究では、その部分がクリアーされたということです。問題は、「いずれはヒトとなるべき細胞でないから、…」の問題です。別の言葉でいえば、ヒトとなるべき細胞と、ヒトとなるべき細胞を差別している、その視点が気になります。ヒトになるかヒトにならないかは、大きな問題ですが、ヒトになるか成らないかを超えた生命に対する畏怖の念が欠けているように思われます。

"生命に対する人間の立ち位置"とは、そのことです。

30年くらい前、すぐれた科学者であり仁徳者でありました加藤辨三郎さんの著書に次のような文を見つけたことがあります。どこかにスクラップしてありますが、以下は憶えている印象での言葉です。

科学者は、研究によってさまざまなものを発見し生み出すが、すべて自然界に許されているものしか誕生しない。○と○を人工的に結合させても、無理なものは淘汰されていく。その自然界の営みに畏敬の念をもち感動せずにおれない。(意趣)

言葉は違っていますが、このような内容だったと思います。この自然の営みを仰ぎ見る視点が重要なのだと思います。
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ips細胞に思う

2012年12月24日 | 生命倫理
以前(24.11.22)、ips細胞の問題点について、次のようにコメントしました。

“「ips細胞について」のコメントを求められ、まとまらないままに「医療も最初は治す医療で、すべてが肯定されたが、医療が進んだ現在では、延命や男女の産み分けなど、欲望を満たすための手段」となる場合もある。ips細胞による治療も、当初はもちろん難病など、すべてが善であるかも知れないが、欲望を満たすための手段としてもちいられないか、その当たりのチェックのために、規制が必要」”

今日(24.12.24)の産経新聞正論で筑波大名誉教授の村上和雄氏が“「中山ノーベル賞」次なる課題”で、同じことを書いていました。「ips細胞を再生医療に応用する場合、この技術を何のためにどう使うかという論義を本格的する必要がある」とのことです。

その前の論述で少し引っかかる所がありました。それは次の記述です。

「ES細胞には2つの問題があった。第1に受精卵を壊して作製するため倫理上の問題があること、第2にES細胞から作られた体細胞が他人の細胞由来であるため免疫上め拒否反応が起きることだ。
 2つのハードル越えた快挙 2つの難点を解決したのが、ヒト皮膚細胞から作製した山中教授の・IPS細胞だ。受精卵を使わないから倫理上の問題が少なく、自分の細胞を使うため拒否反応もない。新しい万能細胞だった。」

この表現だと、倫理的な問題が解決されたような印象を受けます。倫理上、解決されたことは、ES細胞を使用することの中にあった倫理上の解決であって、IPS細胞がどの細胞にも成りえるのであるから、ES細胞を使用上の、様々な倫理的制約は、同様に存在します。

むしろ簡単に生成できるとなっていくと、生命(細胞)に対する尊崇の念が失われていきことでしょう。このことは論者も最後に「いま、世界の学者を総動員しても、細胞一つ元の材料から作れないのである。この事実を謙虚に受け止めて、生命に関する新しい学問を創造したいものである」と締めくくっておられます。

論者の言う「生命に対する新しい学問」とは、漠然としていますが、“生命に対する人間の立ち位置”の研究でしょう。
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尊厳死法案への思い

2012年12月07日 | 生命倫理
『仏教タイムス』という業界紙から、元旦号に尊厳死法案についてのコメントの依頼がありました。文字数は1.800字、今日送信しますが、前半部分だけ、紹介します。

尊厳死法案への思い

ルールの問題ではない

かつて科学技術や医療の進歩が無条件に善であった時代がありました。しかし現代は、科学技術や医療の進歩ゆえに、その技術や医療を、いかに扱うかという良識や、あるべき文化に思いを馳せ判断しなければならない時代となりました。
医療だけに焦点をあてて言えば、医療の発展の動機づけは「病気や障害を治療する」ことでしたが、近年、生命科学・医療技術の発展により、人々が医療に求めるものが、延命や男女産み分けなど「欲望の充足」という方向に変わってきております。人間にとって医療とは何か、また治療不能な状況下で、医療の役割といった哲学的な問題が論議され、哲学外来という診療科目まで登場している昨今です。
この度の尊厳死法案も、延命治療停止のルールの問題や、インフォームド・コンセントのあり方、また重度障害者に対しての扱いなどの、いろいろな問題がありますが、それらの問題はさておき、尊厳死法案の核心である、“死ぬ権利”、人間は生に対していかにあるべきかという哲学的な問題を問わなければなりません。

死ぬ権利

この法案を推進する日本尊厳死協会の宣言書に“終末期医療での「自己決定権の確立」をめざして活動しています”とあるように、日本尊厳死協会の推進するところは“死ぬ権利の獲得”です。最もはハードルが高い死ぬ権利が獲得されれば、後は些末なことで「がん終末期」「認知症状態」と、死ぬ権利は拡大されていくことは目に見えています。
死の権利の獲得は、個人の権利が国の制約の中にあるので、この日本において、どこまで個人の権利は許されるのかという、あるべき文化の問題でもあります。
また人間の尊厳の問題は、何を持って人間の尊厳とするかという宗教的な領域にわたる問題でもあります。人間の尊厳という点だけでいえば、安楽死法案ですすめる人間の尊厳は、単に「知性的人間の尊厳」に過ぎません。この「知性的人間の尊厳」を推し進めれば、人間を知性によって差別化していく社会が到来することでしょう。

3つの疑問
 私は、この死の自己決定に対して、3つの疑問を持っています。

(以下は、新聞で見てください)
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尊厳死法案

2012年10月17日 | 生命倫理
宗教業界紙『中外日報』(24.10.4号)に、“尊厳死法案”についての議論が掲載されていました。私も自分の意見がありますが、それは別のこととして、ふと思ったことは、“法律の分限”という問題です。法律は世間の法であるので相対的なものです。相対的なものであるので、相対的なものを超えたことに対して、判断を控えるということがあってもいいのではないかと、漠然とですが回想しました。

平安時代、出家を罪するときは、まず還俗させて一世俗人として処罰する決まりがありました。出世間のことを、世俗の法で罰することを控えたのです。世俗の法以上のものを想定しているということです。

また、天台宗の回峰行者の特権として土足参内(どそくさんだい)ということがあります。御所の紫宸殿に、わらじ履きのまま参内し、加持 祈祷をすることが許されているのです。これも回峰業者を天皇より上に置く所作です。

現代なので仏教を世間の法より上に置けとは言いませんが、法律を超えた事柄、法律の支配下に置くべきでないことって、あるように思われます。それを具体的に言えば,その1つが死刑や安楽死といった死を人為的に発すことを法律によって定めるということです。

法律以上の存在がなくなっているところに現代の不幸があるように思われます。法律は、ある意味で現代の知性の具体的な姿です。死を人間の知性にゆだねてはならない。これが私の安楽死(尊厳死)に対する意見でもあります。
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