昨朝(27.11.12)、寺の世話人が、『文藝春秋』2015.12月号に開催されていた“. 特別 対談 五木寛之×釈 徹宗(宗教学者・僧侶) 日本人の「往生の作法」”をコピーして届けてくれました。昨日、新聞広告で、本願寺派の釈 徹宗さんの名を見ていたので、早速、コピーして私の見せてあげようと思われたのでしょう。
その方と最近の葬儀事情の話題となり、近年、お墓も含めて葬儀のあり方が、「昔からこうなっている」という規範やシキタリがなくなったので、自由意思で選ばなければならなくなったというような感想を述べました。
世話人が返られてので、持ってきてくださったコピーに目を通すと、同じことが書いてありました。対談の初頭にある釋さんの言葉です。
我々は、現代社会から死生観を持てと強要されているように思います。たとえば、延命治療や末期治療などに対して、あらかじめ意思表明しておかないと、望んでない状態に置かれる可能性がある。つまり史に関して自己決定が求められている。そのために、死生観が必要となる。医療だけじゃなくて、保険やローンなど、さまざまな契約を結んで暮らしているので、これも意思表明しておかねばなりません。(以上)
あらゆる面に過去を規範とせずに自己決定していくという再帰性の時代というこういうものだのでしょう。
どこまでが自己決定が許されるのか、社会の文化と自由意思のすり合わせが、追いついていない状況にあります。
その方と最近の葬儀事情の話題となり、近年、お墓も含めて葬儀のあり方が、「昔からこうなっている」という規範やシキタリがなくなったので、自由意思で選ばなければならなくなったというような感想を述べました。
世話人が返られてので、持ってきてくださったコピーに目を通すと、同じことが書いてありました。対談の初頭にある釋さんの言葉です。
我々は、現代社会から死生観を持てと強要されているように思います。たとえば、延命治療や末期治療などに対して、あらかじめ意思表明しておかないと、望んでない状態に置かれる可能性がある。つまり史に関して自己決定が求められている。そのために、死生観が必要となる。医療だけじゃなくて、保険やローンなど、さまざまな契約を結んで暮らしているので、これも意思表明しておかねばなりません。(以上)
あらゆる面に過去を規範とせずに自己決定していくという再帰性の時代というこういうものだのでしょう。
どこまでが自己決定が許されるのか、社会の文化と自由意思のすり合わせが、追いついていない状況にあります。