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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

社会の文化と自由意思のすり合わせ

2015年11月13日 | 生命倫理
昨朝(27.11.12)、寺の世話人が、『文藝春秋』2015.12月号に開催されていた“. 特別 対談 五木寛之×釈 徹宗(宗教学者・僧侶) 日本人の「往生の作法」”をコピーして届けてくれました。昨日、新聞広告で、本願寺派の釈 徹宗さんの名を見ていたので、早速、コピーして私の見せてあげようと思われたのでしょう。

その方と最近の葬儀事情の話題となり、近年、お墓も含めて葬儀のあり方が、「昔からこうなっている」という規範やシキタリがなくなったので、自由意思で選ばなければならなくなったというような感想を述べました。

世話人が返られてので、持ってきてくださったコピーに目を通すと、同じことが書いてありました。対談の初頭にある釋さんの言葉です。


我々は、現代社会から死生観を持てと強要されているように思います。たとえば、延命治療や末期治療などに対して、あらかじめ意思表明しておかないと、望んでない状態に置かれる可能性がある。つまり史に関して自己決定が求められている。そのために、死生観が必要となる。医療だけじゃなくて、保険やローンなど、さまざまな契約を結んで暮らしているので、これも意思表明しておかねばなりません。(以上)

あらゆる面に過去を規範とせずに自己決定していくという再帰性の時代というこういうものだのでしょう。

どこまでが自己決定が許されるのか、社会の文化と自由意思のすり合わせが、追いついていない状況にあります。



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全体性の欠如

2014年03月14日 | 生命倫理
『産経新聞』(26.3.14)に、金曜討論「尊厳死法案」について、賛成側は尊厳死協会理事長岩尾総一郎氏、反対側、尊厳死法制化を認めない市民の会の呼びかけ人である平川克美氏の意見が並列して掲載されていました。

尊厳死協会の考えは「自分の意志で自分の人生を閉じる」(掲載文言)という死ぬことの権利を獲得する運動です。

平川氏の下記の“法制化で一番恐れているのは『そんなに長生きしたいのか』という空気が出てくること”は、空気は見えないだけに危険性が高い。(下記は新聞より抜粋)

1「死ぬ権利」は認めるべきか
  「本人が死にたいのに死ねない、というのは不幸な状態で、私はいわゆる安楽死というものを認めないわけではない。しかし、終末期をどうするかは法律で決めるものではなく、当事者が引き受けるしかない問題だ。法制化で一番恐れているのは『そんなに長生きしたいのか』という空気が出てくること。個人の死に方が周囲の空気で決められるのは危険だ。なお『尊厳死』という言葉はよくない。延命措置をしたからといって、尊厳死でない死などあるのか。これが尊厳ある死に方だ、などと法律で決められたらたまらない」(以上)

1977年に山本七平さんが『「空気」の研究』という本を出版されました。日本は大きな空気が支配していて、教育行政や戦争指導などの事例を挙げ、空気を読むことが、時に集団の意思決定をゆがめ誤らせるとの指摘でした。やはりその時代時代の空気は見えにくいけどあるようです。現代はどのような空気が支配しているのか。その1つは、個人の自由意思の尊重でしょう。その危険性は?

『阿弥陀経』でいえば「す。池のなかの蓮華は、大きさ車輪のごとし。青色には青
光、黄色には黄光、赤色には赤光、白色には白光ありて、微妙香潔なり。」の中の「微妙香潔なり。」という全体が1つの香りに包まれているという全体性の欠如でしょう。
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全体としての苦痛

2014年03月10日 | 生命倫理
『産経新聞』(26.3.5)正論に“日本で安楽死論義が進まぬ理由”と題して検察官出身の刑事法学者である土本 武司(つちもと たけし、1935年1月4日 - )が執筆されていました。

正論では、安楽死問題が議論されない背景として「 日本では安楽死をタブー視しているが、オランダは安楽死法制定の20年も前から国民的議論がなされ、これを容認する傾向にあった。その背景事情を探ってみると、第一はホームードクター(家庭医)制度が挙げられる。 市民は疾病の際、あらかじめ登録してある家庭医の診察を受け、必要があれば専門医を紹介される。患者と家庭医との関係は長年にわたって継続され、強い信頼で結ばれている。安楽死を望む患者はそれを基礎にして家庭医とじっくり話し合って意思決定をする。 第二にインフォームドーコンセント(説明と同意)が徹底しており、患者は死期などに関し正確な情報を得て意思決定すること。第三に医療保険制度が整備され、患者は経済的負担について不安な激痛の除去という点にあった。そうだとすれば、苦痛を除去するのではなく苦痛を負っている者を排除するのは矛盾である。しかし、すべての末期患者が鎮痛医療の恩恵に浴しているとはいえない。特に、がんの末期患者のように間歇的(かんけつてき)な激痛にさいなまれる患者はその時々の激痛は除去しえても、繰り返し襲ってくる、“全体としての苦痛”をあらかじめ除去することはできない。患者はなぜこのような苦痛のフルコースを経た後でなければ死んではいけないのか。 生命の意義は「長さ」にあるのでなく、「質」 (quality of life)にあるとの認識に立ち、その「質」も、他人が客観的に利益衡量(こうりょう)して決定すべきものではなく、本人の自己決定 (selfldetermination)に本質が据えられるべきである。自己決定権が重要であるということは、良き選択が保障されるからではなく、第三者の目からは、ばかけていても、本人自身が自分流のやり方で選択することが保障されるからである。(以上)

要は、自己決定権は死まで及ぶというものです。それが社会の医療関係の未整備によって実現されていないという話です。

“全体としての苦痛”をあらかじめ除去することはできない。”ということが、どのような苦痛を言っているかが不明ですが、もし“死に向かう”ということであれば、これは私を含めた僧侶の怠慢でしょう。死んでいくという精神的な苦痛は除去できる。これは明らかです。そのことをもっと実践の中で発言してしかなければならない。(私に)
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葉っぱ一枚に及ばない

2013年05月28日 | 生命倫理
土曜日(25.5.25)の仙台行、門信徒はバスでの直行でしたが、私だけは、法事を終えてからの出発でした。上野駅で購入した田中修著『植物はすごいー生き残りをかけたしくみと工夫』(中公新書)は、興味深い内容です。

本のまえがきに“「どんなに費用がかかってもいいから、水と二酸化炭素を原料にして、太陽の光を使ってデンプンを生産できる工場を建ててください」と誰にお願卜しても、引き受けられる人はありません。植物たちの一枚の小さな葉っぱがしている反応を、私たち人間は真似することができないのです”とあります。

人間の英知は植物の足元にも及ばないということです。本を読みながら、東京新聞夕刊(25.5.24)にJT生命誌研究館館長である中村桂子さんが書いておられた「いのちを大切にする社会へ」と符合するものがあり、興味深く、また考えさせられました。

以下新聞より抜粋。

確かに私たちは「お米をつくる」と言ってきたし、最近は「子どもをつくる」とも言う。言葉としては、「船をつくる」と同じだ。けれども、これらをそのまま同じと考えてよいものだろうか。船は材料に手を加えて目的のものをこしりえるという定義にピッタリだ。でもお米はそうだろうか。私たちはイネを育てているのであり、イネをつくり出すことはできない。いのちをもつものをつくる能力はないのである。「子どもをつくる」にいたっては、「材料にあれこれ手を加えて」ではないでしょうと疑問を呈したくなる。
 しかし、私たちがこの言葉を使っていることも確かだ。しかも、「卵子提供登録支援団体」というNPO法人が生まれ、実際にその活動の中で体外受精が行われるという動きがあるのでわかるように、「あれこれ手を加えて」という方向へと動いている。
ここで肝に銘じなければならないのは、ここで「目的のものをこしらえ出す」ことなどできない、生きものについては私たちにはそんな力はないということだ。いのちに向き合うとは、私たちの思うままにするという意識ですべてを動かさないということである。私は、この思いの徹底していない社会で卵子を動かすことには賛成しかねる。(以上)

生命科学の発展によって、生命そのものを作り出すことができるように、錯覚しがちですが、人間の生命科学は、葉っぱ一枚にも及ばないという、いのちに対する謙虚さを、生命科学の発展の中で、どう培っていくか。これは重要な問題です。
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子宮移植?

2013年05月10日 | 生命倫理
産経新聞(25.5.10)に「慶応大や東京大などの研究チームは、雌のカニクイザルから子宮を摘出して再び移植し、妊娠と出産に成功した。札幌市で開かれる日本産科婦人科学会学術講演会で10日発表する。子宮移植後の出産は霊長類では世界初という」という記事が出ていました。

「心臓や肝臓のように生命維持に必須の臓器ではないため、どこまで移植が許されるかなど倫理面の問題も指摘されている。」ともあり、倫理面の問題は要注意です。

問題は“欲望をどこまで肯定するのか”と“若くして子宮除去した人の希望”のボーダーライン、他に、肝臓や心臓同様に、臓器扱いの公平性などなどです。

2日まえに宗教業界新聞『中外日報社』から、「出生前診断」についてのコメントをもとめられました。近年、母体血清マーカー検査法の登場によって、胎児に影響を与えることなく診断ができるようになったため、検査できる病院が飛躍的に増加傾向になります。

「出生前診断」受診増加の流れは、止められないでしょう。そし受診の結果として、選択的人工妊娠中絶を実施する人もあるでしょう。“生前前診断”“選択的人工中絶”の可否の問題は、いろいろあります。

その問題とは別に、生前前受診が、障害は本来あってはならないものという考えにもとずくものであり、またこの出生前診断によって、障害児が生まれる可能は極端に少なくなる分、その少数の確率で生まれてくる子や親の保護を、ハードもソフトも今以上に手厚くしなければならないということです。

昔は多く死に至った小児がんが、現在80%が死なずに済むようになった。しかし20%の人は、確率が低い分、昔みんな死んでいた時以上の負担を感じながら死ななければならない。1つの言葉にすれば「なぜ自分だけが」という負担です。それと同じことが、障害を持った新生児の親にもたらされることになります。その保護を充分にしながらの「出生前診断」でなければならない。そう思います。
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