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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

自殺という言葉

2019年10月30日 | 生命倫理
早朝は霧の中のウオーキングでした。一昨日の続きです。

『現代の自殺―追いつめられた死:社会病理学的研究』(2017/11/23・石濱 照子 著)は、実践者の本でないので広く大にあるように「社会病理」的視点で視察を取り巻いている社会問題を書いているので、素人の私に興味を注ぐ内容が記されている本です。本の中から興味あるところを2.3点だけ紹介してみます。まず「自殺」という言葉についてです。以下転載。

自殺という言葉
 日本において「自殺(suicide)」という言葉は日常的に用いられているが、言葉から与えられる印象がその事象を規定することを考えると、言葉の使用から十分な配慮が必要である。「自殺(suicide)」の語源をたどると、ラテン語のsui (自らを)をcaedo (殺す)の合成語として「自殺」と翻訳されたとも推測できる(石原2003)。
 「自殺」は「自ら自分の生命を絶つこと。自害。」(広辞苑2011)とされ、行為として自らを殺すことを示している。しかし学問的には、「みずからを殺す行為であって、しかも死を求める意志が認められるもの」(大原1965;大原1970;大原1971)など死を求める意志が認められるという部分が追記される。それゆえ、「自己決定」の考え方と相まって、自らの「意志」で選択した死として受け取られるような風潮も出てきたのかもしれない。
 (中略)
 また最近では「自死」という言葉を選んで使用する傾向もある。例えば、島根県では、「公文書」の用語を「自殺」から「自死」に変更した。その経緯は、「自死遺族の会」から自殺の「殺」の文字の印象が犯罪者のイメージであるので「自殺」から「自死」に変更して欲しいという要望かおり、2012年「自殺総合対策連絡協議会」にて方針を決定したものである(島根県ホームページ2012)。
 しかし「自死」という言葉からは、より一層「自らの意志」の印象を受けやすいのではないかとも思われるが、「自殺」という文字より「自死」という文字の方が、漢字の印象が好まれるのかもしれない。
 今後、「追い込まれた死」として社会的あるいは社会構造的な仕組みについて問題提起をするとすれば、もっと慎重に言葉や文字の使用も考えるべきである(石済2011)。全国自死遺族総合支援センター事務局長の南部氏によれば、「『自死』という受け入れやすい表現にすれば、死へのハードルを下げかねない。だからといって犬切な人の死を語るときには「自死遺族」といった表現を尊重してほしい。」(南部2013)など、状況による使い分けが必要であると述べている。また、清水氏は「自殺」の表現は遺族の自責感を強めることや、「自殺」という表現には「いのちを粗末にした」という格下げされた死のレッテルという印象を否めない点について指摘している(清水2013)。
(以上)

私も社会問題としては「自殺」という言葉を使っていますが、ご家族の感情を忖度するときには「自死」という言葉を用いています。
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ビフレンダーズ憲章

2019年10月28日 | 生命倫理
『現代の自殺―追いつめられた死:社会病理学的研究』(2017/11/23・石濱 照子 著) は、2013年度. 博士学位論文. 現代の社会病理現象としての自殺に関する人間科学的 研究. ―「追い込まれた死」の視点からの考察―. (東洋英和女学院大学大学院)を基本にして出版した本です。この本で知ったことですが、国際ビフレンダーズ憲章には、生きること死ぬことの自己決定の尊重が謳われているという。

ビフレンダーズとは、電話をとる人をビフレンダーと呼び、 befriendは「友達になる」「見方になる」「助ける」などの意味があり、専門家ではない「友達」としてある一定の期間、寄り添うという考え方にそった人という意味のようです。

国際ビフレンダーズの目的は、自殺率減少のためのボランティア活動を推進することで、憲章には「たとえそれが究極的に(そして残念なことだが)自分の命を終らせる選択を意味しても、問題解決の方法はコーラー(相談者)自身が決定するというコーラーの権利に言及するものである。」とあります。

相談者は、“「生きる死ぬを決めるのは本人」というスタンスで、「死なないで」とは言わないのが基本です”とあります。

以前、築地本願寺かどこかで開催された研修会で、「自殺防止センター」の西原由記子さんの講演を聴いたことがあります。同じ西原なので印象深く拝聴したことです。 “震える声で「あなたの決定を、ご尊重申し上げます」と伝えたら、女性の声の調子ががらっと変わり「わかってくださいますか。ありがとう」と言われたという”というエピソードを聞いたことがあります。誠に厳しい仕事です。
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健康の定義

2019年10月01日 | 生命倫理
築地本願寺の書店で『現代霊性論』(内田樹・釈徹宗著)を求めました。その本の中に次のようにありました。釈さんの記述です。 

みなさんは「WHO」をご存じですれ。WHOというのはご存じのように世界保健機関のことです。 そのWHOが、一九九八年に、このような発表をしました。
Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.
「建康とは、完全な肉体的、精神的、霊的及び社会的福祉の活力ある状態であり、単に疾病または病弱の存在しないことではない」

 WHOの委員会でこのように「健康の定義」がなされたんですね。それまでWHOは、「肉体・精神・社会性の健かさ」ということを大きなテーマにしていたんですが、人問は肉体や精神や社会生活が健全であれば幸せかと言うと、そうじゃないだろう、WHOは人間の幸せを考える機関なのだから、もっとスピリチュアルな、 霊的な問題をも取り上げよう、と。つまり、人間が幸せであるという状態は、肉体的にも精神的にも社会的にも霊的にも健康であると考えよう、という話になったんですね。まあ、しかしこれ、残念ながら、一九九九年のWHA(叫界保健総会)という、WHOの殼高窓思決定機関で否決されまして……。(以上)

柏の講演会でお会いした折、この話を話題に出すと「そうですよ、日本も否決に回った側です」とのことでした。
 
この記事で始めて、「精神」の部分が否決されたことを知りました。

公益社団法人日本WHO協会のホームページにも次のようにあります。

https://www.japan-who.or.jp/commodity/kenko.html

健康の定義について
WHO憲章では、その前文の中で「健康」について、次のように定義しています。

Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.

健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます。(日本WHO協会訳)

この定義によって、WHOでは、医療に限定されず幅広い分野で、人々の健全で安心安全な生活を確保するための取り組みが行われているのです。 この憲章の健康定義について、1998年に新しい提案がなされたことがあるということはご存知でしょうか。

Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.

静的に固定した状態ではないということを示すdynamic は、健康と疾病は別個のものではなく連続したものであるという意味付けから、また、spiritualは、人間の尊厳の確保や生活の質を考えるために必要で本質的なものだと
いう観点から、字句を付加することが提案されたのだと言われています。

この提案は、WHO執行理事会で総会提案とすることが賛成22反対0棄権8で採択され、そのことが大きく報道されました。そのため、健康定義は改正されたと誤解している人も多いのですが、その後のWHO総会では、現行の健康定義は適切に機能しており審議の緊急性が他案件に比べて低いなどの理由で、審議入りしないまま採択も見送りとなり、そのままとなっています。(以上)
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人に役に立つとは?

2019年04月12日 | 生命倫理
武蔵野大学から「2018年度大学礼拝講話集」が送ってきました。毎月の礼拝の日に大学所属の先生が講話をしたその講話集です。文字の分量から10分~15分といった講話でしょう。


平成三十年十一月二十七日 有明キャンパス
「他人の役に立つということ」仏教文化研究所 大谷弘氏の講話が掲載されてました。弘氏は、知っている人は知っている人ですが、現在、武蔵野大学人間科学部准教授(東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究(哲学)博士課程満期退学、文学博士)です。以下抜粋です。

大学(武蔵野)の「ディプロマポリシー」にも、「世界の幸せに貢献する人材を育成する」というフレーズが入っているのですが、この「世界」が「世界中の人々」という意味だとすれば、我々の大学も「他人の役に立つこと」を目指していると言うことができそうです。
 とはいえ、ここでちょっと立ち止まっていわば「哲学的」に考えてみたいのは、「他人の役に立つとはどういうことなのか」、そして、「そもそも他人の役に立つことがどれほど価値あることなのか」ということです。


 この問いを考えるとき、私は2016年に起こった「相模原障害者殺傷事件」のことを思い浮かべます。…インター・ネットを中心に「重度の障害者は社会の役に立だないから排除するのもやむを得ない」というような言説が広まりました。
 もちろん、我々としてはそのような考え方が間違っている、障害者を社会から排除していいわけがない、と答えたいのですが、その一方で「他人の役に立つのは立派なことだ、価値あることだ」という考えも持っています。では、「重度の障害者は社会の役に立かないから排除するのもやむを得ない」という考えが間違っているという意見と、「他人の役に立つのは価値あることだ」という意見をどのようにして調和させればいいのでしょうか。
 
…我々は「他人の役に立つこと」が価値あることだとしても、それがすべてではないと認識する必要があると思います。要するに、他人の役になんか立たなくてもいいんだ、人間はその存在によってそれだけで尊いのだということです。もちろん、この「尊さ」については、もっと分析して議論する必要がありますが、それは「尊厳」や「権利」といった概念をめぐる哲学的、思想的議論に踏み込むことですので、今日はここまでとさせていただきます。ありがとうございました。(以上)

だいぶ間引きしましたが、設問が興味深い。実際日常生活で「人に役に立つことはいいことだ」といっておきながら「役に立たない重度の障害者も尊厳ある一人」と云っているのですから「人に役に立つとは何か」を吟味にする必要があります。
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生殖補助医療

2016年12月20日 | 生命倫理
『読売新聞』(28.12.19)文化面に「生殖補助医療と向き合う」が掲載されていました。以下転載。


利用が急増する一方で、倫理的な問題点も指摘される生殖補助医療について、日本の宗教界はどう対応すべきか。そんな問題意識の下に12日、宗教界とメディアの関係者が東京都内で話し合った。
 この勉強会は宗教学者の山折哲雄氏らが発起人となった「ともいき懇話会」(浄土宗ともいき財団主催)。まず、生殖補助医療に長年携わる吉村泰典・慶応大名誉教授が、体外受精技術によってすでに世界で500万人以上か誕生したことや、日本でも利用が急増し、年間出生数の5%弱(約4万7000人、2014年)が体外受精児であることなどを報告した。
 利用急増の背景には、晩婚化や親の自己決定権の尊重などがある。一方で、他人の精子や卵子、代理母を使うことや、出生前診断による中絶も行われていることから、生命の商品化や家族関係の複雑化などの倫理的問題があると指摘した。吉村名誉教授は「通常の医療と全く違う生殖補助医療は、医学界より社会が考えるべき問題。宗教界がもっと関与してほしい」と呼びかけた。
 これに対し浄土宗総合研究所の戸松義晴主任研究員は、日本の大部分の宗教団体が、生殖補助医療に対する態度を表明していないと説明。仏教などのアジアの宗教は命の始まりや終わりを一連の流れで見る傾向が強いからといい。
 「『受精をもって命の始まり』と考えるカトリックのようには、はっきりした見解を出しづらい。仏教界もきちんと考えていかないといけない」と述べた。
 また、ともいき財団の佐藤行雄理事長は、不妊に悩む当事者が「宗教者には相談していないだろう」と指摘し、危機感をあらわにした。
さらに浄土宗の新谷仁海文化局長は、寺が存続してきたのは後継者を血縁者に限らなかったからだとして、「血のつながり」の再考を提案した。
 メディア側からも様々な意見か出た。読売新聞グループ本社の老川祥一取締役最高顧問・主筆代理は、生殖補助医療の行きすぎの背景には、子どもを所有物のように見る考え方があるのではないかと指摘。自己決定権を無制限に尊重することが、生殖補助医療の限界状況をもたらしたとし、人間存在の原点に立ち返った議論か必要だと論じた。中外日報社の北村敏泰取締役は、生殖補助医療を巡って宗教者が果たす役割は大きいとし、医療関係者だけでなく、当事者の女性たちにも話を聞くべきだと述べた。
 発起人の山折氏は、生殖補助医療の根底に、ヨーロッパ近代文明の思想かあると説き、非ヨーロッパ圏でいち早く近代文明を受容した日本か「第三の道」を模索する必要性があると訴えた。ただ日本では、生殖補助医療に関する法律も、約20年前から検討しているものの制定されていない。宗教界にとどまらない、幅広い議論か求められている。



(文化部小林佑基)

生殖補助医療の問題で一番の問題点は、生まれてくる子どもの人権でしょう。差別が生じないこと。実の親が誰であるかを知る権利、すなわち「出自を知る権利」も守られるべきです。
どのようにして生まれたのかを隠ぺいしたところでの子育ては問題です。

社会的には、いのちを軽視する状況が生じないことも注視する必要があります。
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