『PTGの可能性と課題』(著者宅香菜子編集)の最終13章に編者の宅香菜子氏が「PTG その可能性と今後の課題」を執筆さられています。その部分からの転載です。
課題1、「PTG(心的外傷後成長)はPTSD(心的外傷後ストレス障害)の逆である」という捉え方を再考する
PTGをPTSDの逆だと理解することは,以下2つの理由から注意が必要だと考える。
第1に先行研究の結果, PTGとPTSDの両方を同時に経験する人がかなりの数いることが知られている。例えば。シェイクスピア・フィンチらは,PTGとPTSDPTGとPTSDの関係について,42の論文の知見をメタ分析によって検討している。その結果,PTGとPTSDの間には正の相関関係,さらには第4章(p.52)でも言及されているように両者は逆U字型の曲線関係としてもとらえられることを示している(Shakespeare-Finch & Lurie-Beck, 2014)。すなわち, PTGとPTSDは同時に経験される傾向が強く,「PTGを経験している人は症状が消失した人である」,あるいは「PTSD症状があるうちはPTGには至らない」といった,一次元上の逆方向を示すものではない。
第2にPTGとPTSDの逆だと概念的に理解し,両者を相反するものだととらえることは,実際のあり方とかけ離れるように思われる。生きている限り消えることのない苦しみに遭遇した人,解決という落としどころがない問題を抱えたまま生きている人にPTGいう実感が見え隠れするケースは少なくない。
しかしながら,両者を相反するものだととらえることによって,「PTGを経験しているのであればPTSD症状は軽減しているはずなのになぜそうならないのか」,「PTSD症状が出ている状態で,PTGの実感があるのはなぜなのか」という問いを引き起こし,その答えを「それは,同避ないしは防衛のための一時的な方略として,PTG的な変化を経験したと思い込んでいるに過ぎないのはなかろうか]と帰結させる議論もある。
(中略) しかし,強いストレスを伴うような出来事を経験した本人ないしは周りの人が,[幸せと不幸]のように「成功と失敗」のようにPTGとPTSDに関して二律背反的なとらえ方をすることは,自分の意思とはまったく無関係につらい出来事を経験せざるを得なかった人にさらなる苦しみを引き起こすかもしれない。と言うのも, PTSD症状が少しでも経験されている間は成長がないと言っているようなものだからである。
『PTGの可能性と課題』(著者宅香菜子編集)
題2:「PTGは結果である」というとらえ方を再
考する
PTGとは,非常につらい出来事を経験した人が,その経験をきっかけに 人間として成長するそのプロセスおよび結果を指す(Tedeschi. Park, &Calhoun, 1998)。
図13 2にイメージを示したように,①それが起きる以前の生活はそれなりに穏やかなものであり,そのことが起きたことで,自分がこれまでに築いてきたものや信念がすべて崩れるような経験となったという自覚があること,②そのことをきっかけとして[立ち直る]ことが非常に難しく,悩み,苦しみ,あれやこれやといろいろなことを考えたり,じたばたしたりという,もがきがあり,③「今,ここで」それまでの自分を振り返ったときにそのことなしではありえなかったような新しい何かがあるなど,「成長」という言葉で表しえるような変化があった場合にPTGは自覚される。そしてこの変容はからっと質的に変わることもあれば,徐々に量的に変わることもあり得る。「今,ここで」の実感を[結果]としてとらえがちではあるが, PTGは終わりのないプロセスのはずである。
どうしてもPTGを「結果」だとみなす傾向が強くなってしまう。しかし,こういったとらえ方で結果としての側面を強調することは,以下3つの理由から。注意が必要だと考える。
第1に, PTGを結果だとみなすと,PTGをゴールに据えるような考え方をうむ。
トラウマを経験せざるを得なかった人は,戻せるものなら時計の針を戻したい,自分の成長云々よりも,このような苦しみが二度と起こらないようにそして今の苦しみをとにかく少しでも楽に という必死の思いであることが多い。その場面において, PTGを結果に据えることは,[自分には無関係のもの],「手が届かないもの」,「そもそも,そんなことは望んでもいないもの」と, PTGに背を向けることにつながり,不必要なまでにPTGを敷居の高いものにする可能性がある。
第2にPTGを結果だととらえるとプロセスとしての意義が充分に認識さない。トラウマ後に自問自答を繰り返したり,気晴らしをしようとしてみたり,解決に至る道を探索したり,信頼できる人に話を聞いてもらったり,あるいは信頼できると思って話しだのに裏切られてまた苦しんだり,自分を守るためにすべてから逃避したり,といったさまざまなこころの動きはすべてPTGという大きなプロセスの一部である。 しかし, PTGを結果だととらえると,このプロセスの問じゅう[PTGにはまだ至っていない]という認識につながり,「いつPTGに至るのだろうか」という懐疑とプレッシャーで,むしろさらなる苦しみをうみかねない。
第3に先行研究では,トラウマからの経過期間がPTGI得点に影響を及ぼすという知見はほとんど見られない。それでも心情的にそして倫理的に,トラウマ直後にPTGを問うことは不謹慎だとみなされ,ためらわれる。けれどもそのような社会のあり方が,直後にうっかり表出されたPTGを排斥するように作用することも事実である。 PTGの表出が憚られる状況や社会もあれば,PTGの表出を求められる状況や社会もある。これらは「結果」ないしは「表現形式」としてのPTGにウェイトがおかれるからこそではなかろうか。(以上)