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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

心的外傷後成長

2021年12月15日 | 苦しみは成長のとびら

「二種深信」とは、自分の愚かさが明らかになることと、その愚かなわたしを摂取するという間仏の願いに開かれることです。この浄土真宗で最も重要な要となる教えは、人類のすべての人が苦しみからから解放されていく重要な考え方でもある。

以前紹介した『危機の心理学』(放送大学教材)の中にある論文『危機後の成長』(星薫氏)―危機後の成長にとって個人の資質的な面で重要なことーの中に次のようにありました。

キングとヒックス(King & Hicks, 2007)の研究から,…キングらは,危機を経験した後に,成熟を果たすことができるためには,「驚き」「謙遜さ」「勇気」という3つの要素が不可欠であると指摘する。謙遜さとは,自分がいかに弱く,いかに小さな存在であるかを認めることができる能力である。(以上)

 

危機の中で成熟するためには「自分を無にする体験」すなわち「機の深信」に相当する体験が重要であるということです。



苦しみや悲しみなので心的外傷と通して成長することをPTG(ポストトラウマティック・グロウス)、心的外傷後成長といいます。心的外傷後成長する要素の中に、「人間としての成長」がつながるというストーリーや文化があることが重要であるとあります。すなわち「自分を無にする体験」を許容する豊かさに触れているという「法の深信」に相当するものが大事だということです。

 

苦しみの体験の中で、どのように「機の深信」「法の深信」に相当するものを、当事者に届けるか。これは実践の中で明らかにしていくべきものでしょう。

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約束の大地

2021年12月06日 | 苦しみは成長のとびら

『約束の大地 想いも言葉も持っている』 (ソフトカバー・2017/3/15・みぞろぎ梨穂著)

 

著者について

みぞろぎ/梨穂 (溝呂木梨穂) 1992年7月23日東京都杉並区生まれ。3日後、新生児黄疸のため都内の総合病院に入院。突然、脳に酸素がいかない状況に落ち入り生後1か月で、最重度の脳障がい児となってしまう。2000年2年遅れの8歳で光明特別支援学校小学部入学。2012年光明特別支援学校高等部卒業。2012年國學院大学柴田保之先生らと出会い、自分の想いや言葉を詩を引き出してもらう。(以上)

 

人間の可能性に驚かされます。

以下転載。

 

忘れもしない平成24年5月20日。この日、19歳5か月の長女・梨穂が言葉を持っていることを確認することができたのです。
生まれてすぐに脳に酸素が届かないという原因不明のトラブルに見舞われた梨穂。それによって体の自由はおろか言葉を話すことさえ奪われてしまった梨穂は、生後僅か1か月にして最重度の脳障碍児となってしまったのです。
それでも私には、梨穂の中にちゃんと意思や思いがあることをひしひしと感じてきました。梨穂にはきっと言葉がある。だから何としてもその言葉を引き出してあげたい――その一心でした。

それだけに長年抱いていた思いが叶った瞬間、鳥肌とともにえもいわれぬ喜びが体の中を駆け巡りました。しかも驚いたことに、梨穂の中には実に豊かな言葉の世界が広がっていたのです。
梨穂の言葉を引き出してくれたのは、國學院大学教授の柴田保之先生でした。柴田先生はこれまで「言葉を持たない」と思われてきた重度障碍者から言葉を引き出してこられた方です。

独自に開発されたスイッチを通じて、パソコン画面に次々と打ち出されていく梨穂の言葉。人によって最初はなかなかスムーズに言葉が出てこない方もいらっしゃるようですが、梨穂の中からはまるで溢れ出るように言葉が生み出されていったのです。

 

言いたい気持ちがあります。びっくりして夢のようです。長い間、待ち望んでいました。

私に言葉があると、なぜわかったのですか?

ご覧の通り、何もできない私ですが、ぼんやりと生きてきたわけではありません。

ずっと、私は人間とは何なのかということを、考えてきましたから、別に世の中の人が何と言おうと、私は私らしく生きてきました。

 

自分にとって理想は、良き理解者を見出して、どうして私たちが生きる意味があるのかということを伝える、そのことが夢でした。

少し考え過ぎると思われるかもしれませんが、私にとっては私が生まれた意味がわからないと、私をなかなか保つことさえ難しいからです。

理想をそのまま語ると、私にとって私の生きる意味は、私たちのような存在でも生きる意味があるのだから、どんな人にも生きる意味があるということです。

楽な人生ならそんなことは考えはしなかったでしょうね。でも、こうして私は、ぼんやりとは生きてこられなかったので、わざわざそういうことを考えてきました。

なぜ、私に生きる意味があるのかというと、黙ったままの人生でも人は希望をもって生きられるということを証明できたからです。

なかなか信じられないかもしれませんが、私は希望をなくしたことはありません。小さいころからずっとお母さんに、たくさん愛情を注いでもらいましたから、私はとても幸せです。

(以上)

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自己肯定感

2021年12月02日 | 苦しみは成長のとびら

早朝ウオーキング、11月ごろから早朝ではなく、未明ウオーキングなっています。夜があける頃に家路に着くといったところです。地元の日のでは6時30分です。

 

今日のウオーキング中、「あ、そうか」と気づいたことがあります。それは、アルコール依存症や各種依存治療で有効とされるAA(アルコホーリクスアノミマス)に代表される「12ステップ式自助グループ」の大切な部分です。このグループの考え方は「弱い自分」を肯定し徒行く方向にあります。

AAの 12ステップとは次のようなものです。

AAの12のステップ
1. 私たちはアルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。
2. 自分を超えた大きな力が、私たちを健康な心に戻してくれると信じるようになった。
3. 私たちの意志と生きかたを、自分なりに理解した神の配慮にゆだねる決心をした。
4. 恐れずに、徹底して、自分自身の棚卸しを行い、それを表に作った。
5. 神に対し、自分に対し、そしてもう1人の人に対して、自分の過ちの本質をありのままに認めた。
(以下省略)

そのステップにしたがって定期的に集まってミーテイングを持ちます。AAの場合、集いに参加する人は、依存症の経験者です。

 

 12のステップが「12ステップ式自助グループ」として、共依存やアディクション(嗜癖)の治療に用いられています。

この第一ステップ「1. 私たちはアルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。」という自分の無力さを認める点が、浄土真宗の考え方と近いと思っていました。今朝、気づいたというのは、依存症体験者が定期的に集まって語りあうという点が、自分の無力さを認めた人を肯定する仕掛けになっているということです。無力さを受け入れることは、その無力さを受け入れる自分を受け入れてくれる人や存在がなければできないことです。無力な自分を自己肯定してくれる存在が不可欠なのです。

 

浄土真宗の場合、罪悪深重のわたしを肯定してくれるものは、読経や聴聞、声明と知った阿弥陀仏によってもたらされている行儀です。

 

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心的外傷後成長⑦

2021年10月31日 | 苦しみは成長のとびら

 

『PTGの可能性と課題』(著者宅香菜子編集)第一章に編者である宅香菜子氏が「PTGとは」の章を設け「2 PTGの理論モデル」について引用執筆されている。PTGがどのように達成されるか、そのモデルです。

 

PTGはどのような道筋で生じると説明されているのか,テデスキとカルフーンによるPTG理論モデルを紹介する。彼らは1998年に最初のPTG理論モデルを発表し(Calhoun & Tedeschi, 1998, p.221),それから若干の改訂を経て, 2004年に今日よく知られているPTG理論モデルを発表した[Tedeschi &Ca]houn, 2004)。このモデルの日本語訳は『PTG 心的外傷後成長一一トラウマを超えて』(近藤. 2012, p. 6)にも紹介されている。

 

 

その耐えがたい精神的苦痛をなんとか緩和しようとしてほぼ「自動的」に行われる認知的営みである。出来事の直後には、考えたくなくてもそのことを考えていたり、同じことがぐるぐると頭の中をめぐっていたり,また,まったく別のことをしていても,その考えが「侵人的」に頭の中に浮かんできて,自分が今していることに集中できないという状態が続くことが多い。これが「熟考・反芻」の過程である。

 

 この先の見えない反芻の内容や方向性が,徐々に変わっていくプロセスを促進するのが,「自己分析」と「自己開示」である。熟考の性質は,ただ時問の経過に従って自然に変わっていくとは限らず,その時問の経過の中で何をするかが重要である。

 ここでいう[自己分析]とは,その出来事を経験した自分が,今,ここで感じていることや考えていることを,日記や手紙のような形で「筆記」し,「整理」したり,自分の考えや気持ちを落ち着かせたりするために瞑想に取り組んだり,静かに「祈り」を捧げたりすることを指す。自分を圧倒するような感情や情緒的苦痛,反芻を客体視するような認知的活動によって,熟考の性質が徐々に変わるきっかけとなる。

 自己分析だけではなく。信頼できる人と話をすること,[自己開示]することも反芻の性質を変えるのに役立つ。

 自分の身に起きたことや、自分が反芻している内容を安心して[語る]ことができ,また聞き手の方がそれに対して共感的かつ支持的な反応を返してくれたと感じることができれば、その相互作用が熟考の性質の変化を促進する。

 

 これらのプロセスによって, 侵人的であった「熟考の方向転換」が起こり,認知的反芻の性質が「意図的・内省的・前向き」な方向に変化する,出来事直後の苦痛に引き続いて揺るがされた世界観を,今の状況に適応する形で再構築しようとする方向である。

 

 出来事に引き続く熟考の性質の変化には,「社会文化的な影響」が大きくかかわっている。[苦痛に満ちた出来事]と「人間としての成長」がつながるというストーリーをよく見聞きするような文化のなかで生きている人にとっては,まわりに[ロールモデル]となる人も多く,上述したような熟考の変化も促されやすくなる。

 一方で,その両者の関連性を強調しない文化,またその両者を関連づけることに蹈躇するような文化のなかで生きている人にとっては,PTGの萌芽が仮にあったとしてもその表出はためらわれるであろう。(以上)

 

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心的外傷後成長➅

2021年10月30日 | 苦しみは成長のとびら

『PTGの可能性と課題』(著者宅香菜子編集)の最終13章に編者の宅香菜子氏が「PTG その可能性と今後の課題」を執筆さられています。その部分からの転載です。

 

課題1、「PTG(心的外傷後成長)はPTSD(心的外傷後ストレス障害)の逆である」という捉え方を再考する

 

 PTGをPTSDの逆だと理解することは,以下2つの理由から注意が必要だと考える。

 第1に先行研究の結果, PTGとPTSDの両方を同時に経験する人がかなりの数いることが知られている。例えば。シェイクスピア・フィンチらは,PTGとPTSDPTGとPTSDの関係について,42の論文の知見をメタ分析によって検討している。その結果,PTGとPTSDの間には正の相関関係,さらには第4章(p.52)でも言及されているように両者は逆U字型の曲線関係としてもとらえられることを示している(Shakespeare-Finch & Lurie-Beck, 2014)。すなわち, PTGとPTSDは同時に経験される傾向が強く,「PTGを経験している人は症状が消失した人である」,あるいは「PTSD症状があるうちはPTGには至らない」といった,一次元上の逆方向を示すものではない。

 第2にPTGとPTSDの逆だと概念的に理解し,両者を相反するものだととらえることは,実際のあり方とかけ離れるように思われる。生きている限り消えることのない苦しみに遭遇した人,解決という落としどころがない問題を抱えたまま生きている人にPTGいう実感が見え隠れするケースは少なくない。

 しかしながら,両者を相反するものだととらえることによって,「PTGを経験しているのであればPTSD症状は軽減しているはずなのになぜそうならないのか」,「PTSD症状が出ている状態で,PTGの実感があるのはなぜなのか」という問いを引き起こし,その答えを「それは,同避ないしは防衛のための一時的な方略として,PTG的な変化を経験したと思い込んでいるに過ぎないのはなかろうか]と帰結させる議論もある。

(中略) しかし,強いストレスを伴うような出来事を経験した本人ないしは周りの人が,[幸せと不幸]のように「成功と失敗」のようにPTGとPTSDに関して二律背反的なとらえ方をすることは,自分の意思とはまったく無関係につらい出来事を経験せざるを得なかった人にさらなる苦しみを引き起こすかもしれない。と言うのも, PTSD症状が少しでも経験されている間は成長がないと言っているようなものだからである。

『PTGの可能性と課題』(著者宅香菜子編集) 

 

題2:「PTGは結果である」というとらえ方を再

考する

 

 

 PTGとは,非常につらい出来事を経験した人が,その経験をきっかけに 人間として成長するそのプロセスおよび結果を指す(Tedeschi. Park, &Calhoun, 1998)。

 

 

図13 2にイメージを示したように,①それが起きる以前の生活はそれなりに穏やかなものであり,そのことが起きたことで,自分がこれまでに築いてきたものや信念がすべて崩れるような経験となったという自覚があること,②そのことをきっかけとして[立ち直る]ことが非常に難しく,悩み,苦しみ,あれやこれやといろいろなことを考えたり,じたばたしたりという,もがきがあり,③「今,ここで」それまでの自分を振り返ったときにそのことなしではありえなかったような新しい何かがあるなど,「成長」という言葉で表しえるような変化があった場合にPTGは自覚される。そしてこの変容はからっと質的に変わることもあれば,徐々に量的に変わることもあり得る。「今,ここで」の実感を[結果]としてとらえがちではあるが, PTGは終わりのないプロセスのはずである。

 

どうしてもPTGを「結果」だとみなす傾向が強くなってしまう。しかし,こういったとらえ方で結果としての側面を強調することは,以下3つの理由から。注意が必要だと考える。

 第1に, PTGを結果だとみなすと,PTGをゴールに据えるような考え方をうむ。

トラウマを経験せざるを得なかった人は,戻せるものなら時計の針を戻したい,自分の成長云々よりも,このような苦しみが二度と起こらないようにそして今の苦しみをとにかく少しでも楽に という必死の思いであることが多い。その場面において, PTGを結果に据えることは,[自分には無関係のもの],「手が届かないもの」,「そもそも,そんなことは望んでもいないもの」と, PTGに背を向けることにつながり,不必要なまでにPTGを敷居の高いものにする可能性がある。

 第2にPTGを結果だととらえるとプロセスとしての意義が充分に認識さない。トラウマ後に自問自答を繰り返したり,気晴らしをしようとしてみたり,解決に至る道を探索したり,信頼できる人に話を聞いてもらったり,あるいは信頼できると思って話しだのに裏切られてまた苦しんだり,自分を守るためにすべてから逃避したり,といったさまざまなこころの動きはすべてPTGという大きなプロセスの一部である。 しかし, PTGを結果だととらえると,このプロセスの問じゅう[PTGにはまだ至っていない]という認識につながり,「いつPTGに至るのだろうか」という懐疑とプレッシャーで,むしろさらなる苦しみをうみかねない。

 

 第3に先行研究では,トラウマからの経過期間がPTGI得点に影響を及ぼすという知見はほとんど見られない。それでも心情的にそして倫理的に,トラウマ直後にPTGを問うことは不謹慎だとみなされ,ためらわれる。けれどもそのような社会のあり方が,直後にうっかり表出されたPTGを排斥するように作用することも事実である。 PTGの表出が憚られる状況や社会もあれば,PTGの表出を求められる状況や社会もある。これらは「結果」ないしは「表現形式」としてのPTGにウェイトがおかれるからこそではなかろうか。(以上)

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