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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

弱さにふれる教育④

2022年08月27日 | 苦しみは成長のとびら

水野治太郎著『弱さにふれる教育』(ゆるみ出版・1996年刊)からの転載です。

本章を結ぶに当たり、弱さの教育の意味する内容をまとめておきたい。人間の弱さは無限である。強さもまた無限である。なぜなら、弱さも強さもどちらも同じ人間性の表現であり、生きるものの姿である。西欧近代主義の思想や哲学・科学の強力な支配によって、われわれは弱さを侮辱し、それを克服する強さを求め続けてきたが、弱さにも意味があるはずである。そのことに気づかせる教育はいまだかつて誰も意図的に行なったものはいないような気がする。しかし、これからの人間教育には、人問の多様な弱さを知り、学んでゆく姿勢と、その弱さへの備えを準備する教育が必要である。退職準備教育、老いへの準備教育、看護教育、福祉教育、ボランティア教育、心のカウンセリング、災害救助活動の準備教育、いのちの弱さに学ぶ生命教育、死別体験者を癒やす教育、死への準備教育などに分類整理されると思う。

 人間の心身あるいは生命力をめぐる弱さは、大きくは以下の三点に要約されるのではないかと考えている。

  • 人間の不完全性に由来する弱さI-失敗・挫折・忘れる・無知・傲り・依存性・後ろ向き・憎しみ・汚さなど。このなかには文明に依存する体質をもっか新しい弱さも加わる。
  • ・社会的弱さ-主として社会的行動面でのハンディを背負っているための弱さ。老いた人・ 死に直面している人・少数者・障害者・子供らの弱い人々
  • ・生老病死―いのちの有限性・受動性に由来する根源的弱さ。大いなるいのちを与えられ生かされている有り難さを感受する課題を担う

 さらに弱さと強さの関係性を要約することにしたい。多少複雑さが伴うがご寛容に願いたい。

  • 弱さを体験することが強さを引き出す契機につながることがあるー死を見つめることが生きようとする強さを引き出す。
  • 逆に弱さを活性化して泣き虫の状態から逶明感を引き出し、心を柔らかにすることがある。
  • ・強くあるために弱さを否定し頑張る生き方もある。
  • 本当の強さは弱さ・弱々‥∵醜さを自覚し受容することである。
  • いままでの強さは弱さと無関係だと考えられてきたが、弱さにふれあう強さが求められるのである。
  • 「苦悶の人生」という表現からは強さだけが讚えられているように見える。しかし強すぎることからくる弱さもある。共感性の喪失である。
  • 自己実現の体験には挫折・失敗等の弱さの体験が欠かそない。
  • 弱さと共存できる強さが本物ではないか。そのためには弱さに意味を見いだす姿勢が必要である。(つづく)
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弱さにふれる教育③

2022年08月25日 | 苦しみは成長のとびら

水野治太郎著『弱さにふれる教育』(ゆるみ出版・1996年刊)からの転載です。

弱さの研究課題

 

 今後の弱さをめぐる課題を整理しておきたい。第一に、弱さの認識や課題が「老いと死」「尊厳死」「安楽死」あるいは「がん告知」などの、生命倫理やターミナルケアの場面に隕られた問題として認識されるだけでは不十分である。弱さはむしろ、広い社会的視野のなかに取り込み、弱さ・苦しみの受容といった人問形成の課題、福祉社会の新しい展開、差別や「いじめ」等にみられるよう人権問題や教育における「個性化教育」の推進、このような広がりのなかで、今後の人類の共通課題として検討すべき問題だということである。

 筆者は医療・看護・福祉・教育を特別な対象として人間学的探求をすすめるうちに、経済効率を優先する現代社会の今後の展開、ことに成熟社会への移行にとって、弱さは「頂上の石」ともいうべき重要な位置にある問題点だという認識をもつとともに、弱さの意味や研究を通じて、人間相互の関係性によってケアしケアされる「やさしい社会」への転換が実現可能だと考えるようになった。

 第二に、人門の弱さはひたすら他者からのケアの対象として、援助を求めるだけの受動的・消極的意味しかないのかという問題がある。たとえば生老病死などは、単なる憐れみの対象以上に社会的・人間的意味があるのではないか。第三章ではノーマリゼーションにおける弱さの社会的認知と対人処遇のなかでの弱さ、つまり逸脱の取り上げ方、さらに社会的に統合化される弱さの問題等をとりあげた言こういう視点からは、弱さを位置づけ受容する社会形成の課題が認識されつつあることを指柚できる。

 第三に、人間の弱さの心味づけを行なうとき、弱さをさらけ出す病者自身の積極的評価すら引き出すことも可能である。人間の弱さを背負いながらもなお不断に自己決定(意味づけ)をすすめる存在であるからである。また反対に、ケアする側の姿勢によって弱さの意味が変化することもある。つまり人間の弱さは個人的問題に終わることもあれば、支え合う仕組みに依存する問題でもある。

 弱さこそが人問存在の中核であり、人間の生き方を考察するうえでもターニッグーポイントとなる。弱さを肯定し受容する道を選ぶのか、ひたすら否定する道を選ぶのか。人類の未来はその決断にかかっているといえよう。(つづく)

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弱さにふれる教育②

2022年08月24日 | 苦しみは成長のとびら

水野治太郎著『弱さにふれる教育』(ゆるみ出版・1996年刊)からの転載です。

 

 「生老病死」の語にあるように、人間は元来限られた寿命を与えられて、限りある生命を生きるのである。先に「自然的弱さ」と名づけたとおりである。死は生命の誕生とともに、約束されたものである。死を約束しながらも、生命はある時間を生きぬく義務を背負っている。そこに自己矛盾がある。

 しかし、そうした生きものとしての弱さを、「自然的弱さ」と名づけてみることにしよう。この自然的弱さに対して、人間だけが独白の意味づけを行なうことができる。精神性豊かな伝統文化では、人間が「生かされて生きる生命」であることをよく認識していたといえる。従って「根源弱さ」を価値的に評価する目をもっていたのである。

 つまり「自然的弱さ」は、二重の意味を内包している。一つは寿命に限りある生きものという生物一般に通じる弱さと、さらに、その一度限りの生の本質を見極め、生かされている人間としてよりよく生きる実存的・主体的生に転じるあり方である。前者は、われわれ生きる者が、その呼吸を止めさえすれば死が待っているという意味での、肉体としての弱さである。つまり弱さの意味が肉体にとどまっており、生きる内実が豊かにイメージされていない。生きるとは死に向かって生きるということであり、すべての生きものは、この地球において、たった一度のいのちを牛きているのである。いのちが他者から与えられ、生み出されているという厳粛な事実に目覚めていない。つまり生きることに根源的な感謝がみられない。従って死ぬことにも深い意味は認められないのである。

 そこで根源的弱さに目覚めるとき、生きるとは「生かされる」ことであるとの受動的意味が浮かびあがり、さらに大いなる宇宙の生命活動に出会うことになる。根源的弱さは受動の知を感得することにつながる。

 第一の弱さを「生命的弱さ」、第二の弱さは「根源的弱さ」と表現すれば、脳死問題や臓器移植の議論の中心的課題は、脳死は人の死であるかどうかという議論となって、人の部分死でしかない脳死を生命というものの全体像のなかでどう位置づけるか、という視点がとられる。(つづく)

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弱さにふれる教育①

2022年08月23日 | 苦しみは成長のとびら

水野治太郎著『弱さにふれる教育』(ゆるみ出版・1996年刊)からの転載です。

 

『広辞苑』の強い・弱いの説明文に示されていることをもう少し分析してみることにしよう。強さ・弱さには、第一に、「力が少ない」とか「力がすぐれている」というように「体力」に焦点を当てて見ている。第二は、「丈夫である。すこやかである」、さらに「すこやかでない。健康が衰えている」にみられるように「健康」を中心に見ている。さらに第三に「意志が堅固でない。気丈ではない」とか「気丈である。屈しない」のように「精神」「性格」「気質」をみている。第四は、「すぐれている」「欠点である」に対比されるように、長所と短所という意味で使われる。さらに第五に、強さには「きびしい。激しい」のようなマイナス表現もみられる。強さが昂じた時の問題である。しかし、弱さの表現にはその逆のプラス表現はみられない。

 いま一度要約してみると、強か・弱さは「体力」「健康」「意志」を中心に見ており、肉体および精神・気質と、これに「長短」の形谷詞的な活用もある。さらには強さをきびしいとか激しいとする批判的意味も含まれている。従って「弱さ」のなかには否定的意味が中心であって、弱さの長所を伝える意味は含意されてはいないといえよう。

 

それに対して、諸橋轍次の『犬漢和辞典』をみると、「弱」には最初に別の意味が加かっていることがわかる。すなわち、

 ・よわい。イ、たわむ。まがる。口、なよやか。強固でない。(、おとる。二、ちひさい。 ホ、にぶい。おろか。決断力がない。へ、いきはいがない。(以下おとろえる、弱者、わかい、などがある。詳細省略)

 ここに明らかなように、弱いが「たわわ。まがる」「なよやか」などと最初にあがっていることは大変興味深いものがある。その理由は「象形。もと弱に作る。弓は、木の撓み曲った形、彡は毛の撓んで弱いに象る」とあって、木の撓み曲がるしなやかさを意味していることがわかる。従って弱さには「まがる」「なよやか」のしなやかさが意味されている。

 元来、弱さをマイナスにみるのではなくて、長所としてとらえる文化がここには存在していたのではないかと想像できる。それがやがて、弱さがマイナスイメージしか意味しない文化を作り上げたといえるかも知れない。(つづく)

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死別の社会学

2022年07月01日 | 苦しみは成長のとびら

『死別の社会学』(青弓社刊)2015年5月発行 深井敦・有末賢著

 

著書紹介

「死別」への社会学のアプローチ方法を整理したうえで、「配偶者との死別と再婚」「介護と看取」「いじめ自死」といった具体的な事例を、インタビューや各種データに基づいて読み解く。個人と社会が死別という経験とどう向き合ってきたのかを浮き彫りにする。

 

著者に記名されているお二人は、共に慶應義塾大学法学部教授です。この本は、二〇〇五年六月二十九日に慶應義塾大学おいて「死と死別の社会学」研究会に始まり、会のメンバーの研究をまとめたものです。

東京ビハーラにおいても、しばしばがん患者家族のお話を伺うことがあります。その目的の第一は、死別を体験した家族ご本人が、他人に語るということいを機縁にして、悲しみや苦しみの体験が、自分にとってどの様な意味があったのか、またその体験の中で気づいたことなどをより深め、あるいは新しい意味づけ場になればとの思いからでした。

本の内容は多岐に亘るが、死別体験に限って少し紹介してみます。

 

 

第3章 闘病記に現れる死別に門林道子師が「悲嘆とレジリエンス」と題して次の様に記されています。(以下転載)

 文献調査で中心としたのは二〇〇五年、東京都立中央図書館に設置された「闘病記文庫」の蔵書である。一九六四年から二〇〇九年までに出版された約五百五十冊のがん闘病記を対象にしたが、そのうち約四分の一が患者本人でなく、家族によって書かれていた。

 家族によって書かれた闘病記は患者の死後に出版されたものが少なくなく、意識・無意識を問わず、闘病記を書くことによってクリープワークがおこなわれていることがわかった。そのクリープワークの内容は、①気持ちの整理ができたことで次の人生へ移行、②社会の役に立つことを目指し実行できたことで納得、③子どもを亡くした場合など、一体化・内面化することで喪失感が和らぐ、さらに④「生きる勇気を得る」、⑤「区切りー切り離し」、⑥「遺志の社会化」の六つに類型化か可能であることが、これまでの研究で明らかになった。

(以上)

 

また同様に米田朝香師も第6章 死別体験をとらえる視線に次のようにあります。米田朝香師は次の様に記している。

 

東村奈緒美らは、ホスピスでがんによって近親者を亡くした家族を対象に、遺族の人間的成長に関する質問紙調査をおこなった結果、成長に結び付くポジティブな変化と考えられる記述を、①ライフスタイルの変化、②死への態度の変化、③人間関係の再認識、④生への感謝、・⑤自己の成長、⑥人生哲学の獲得、⑦宗教観の変化の七つのテーマに分類している。そして、それぞれの内容を「死別体験後の遺族の人間的成長」ととらえている。(以上)

 

 

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