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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

絶望の中で

2019年05月10日 | 苦しみは成長のとびら
NHKラジオ『深夜便』「明日へのことば」、昨日(2019年5月9日)は、「"がん患者"2万人に寄り添い続けて」佐々木常雄(医師)氏のインタビューでした。         

佐々木常雄(医師)  て
山形県出身73歳、弘前大学医学部卒業後、青森県立中央病院、国立がんセンター、都立駒込病院などで勤務し、2008年から4年間院長。がんの内科専門医としておよそ2万人以上のがん患者の抗がん剤治療に当たり、看取った患者はおよそ2000人。

内容は「明日へのことば」
http://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/05/2.htmlでご覧下さい。

インタビューの最後に、次のような話をされました。上記、ホームページより転載。

女性で67歳の方乳がん4年間戦ってきて後1カ月の命だと言われた方。
旦那は72歳で無職。
放射線の治療の為に僕の処の病院に来ました。
患者さんはもう動けないし全身が痛いので、モルヒネを沢山打って早く死なせてくれればいいと思った。
生きていてもしょうがない、みんなに迷惑をかけるだけ、夫は食べ物を買ってきてくれるが食べる気がしない、どうせ後3週間出し・・・早く死なせてもらった方がいいとその方は思っていたそうです。

或る時に旦那さんが好きなおかずを買ってきたが食べない。
「生きていても意味がない、どうせ何にも役に立たない、早く死なせて。」と言ったそうです。
旦那さんが帰り間際になって「君が生きてさえいればそれでいいんだよ。 生きててほしい」、そう言って帰って行ったそうです。
2日後の夜になってはっと気が付いて
「私が生きていることが夫の励みになっているかもしれない。
私が生きている意味があるのかもしれない。
私が死んだら夫は一人になってしまう。
生きなきゃ、生きている間に夫に料理や家事を教えなきゃあ。」
「君が生きてさえいればそれでいいんだよ。 生きててほしい」その言葉で、どうせ死ぬにしても口は動くので料理、家事を教えるために翌朝には、カーテンが開けられ部屋が明るくなり、表情も明るくなっていた。
例え人間動けなくなっても、生きているだけでも人の役に立つことができる、私はこの患者さんからこの事を教わりました。
或る患者さんから「みんな人それぞれ心の奥には安心できる心があるんだ、そういう要素が心の奥にあるんだ、人間皆安心できる心があるんだよ」ということを教えてくれた人がいました。
安心できる心を引き出すには、周りの人の真心が大きな役割を果たすのかなと思います。(以上)

絶望の中で、こころが反転するという事があります。それは自分の希望を尺度とした風景ではなく、既に恵まれている事への気づきというものでしょう。深夜便のお裾分けです。
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「自分らしさ」を壊す

2018年10月29日 | 苦しみは成長のとびら
昨28日の産経新聞に「文芸欄」に“「自分らしさ」を壊す”のタイトルで早稲田大学教授の石原千秋氏が執筆されていました。前半部分だけ紹介します。

「社会に出たら」と言って、一拍おいた。「自分らしく生きようなどと思わないで下さい」と続けた。今年の3月25日、僕が学科主任として早稲田大学教育学部国語国文学科の卒業生に語った言葉の冒頭である。「自分らしく生きよう」みたいな言葉が世の中に溢れている。多くの場合は、「周囲やその時々の状況に振り回されずに、肩の力を抜いてね」というようなニュアンスだろうと思う。しかし、アスリートが「今日は自分らしいプレーができた」というときの「自分らしさ」は才能や個性の意味だろう。それが求められるのは、選ばれた一握りの人々かもしれない。
 先日、東京都美術館に藤田嗣治展を観に行ったとき、必ずしもそうではないかもしれないと思った。「自分らしさ」は、才能や個性のようにもともと備わっているものではないかもしれない。
 後年レオナール・フジタと名乗った時期の絵は、あの有名なベビーパウダーを絵の具に混ぜた神秘的な白が特徴のいかにも藤田らしい作風となっていて、多くの人は藤田嗣治といえばあの白をイメーするだろう。ところが、その展覧会には藤田嗣治の若い頃の絵もいくつか出品されていて、それに驚いたのだ。これはピカソ、これはキュービズム、これはモダニズム、これはモディリアニ。そう言われても「そうかもしれない」と思ってしまうような作風なのである。藤田の絵が、僕たちの知っている藤田嗣治らしくなるのは30代半ばまで待たなければなりませんでした。逆に言えば、藤田嗣治が藤田嗣治らしくなるためにはたくさんの可能性を捨てなければなりませんでした。たかだか20歳ぐらいの君たちが『自分らしく』あってはいけません。『自分らしさ』はこれだと決めてはいけません。これから大学に入る君たちは、まだまだたくさんの『自分らしさ』を生きて下さい」と。僕が今年の3月に卒業生に語ったのも、そういうことだったのである。(以下省略)

いい話です。
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羞恥心

2018年07月22日 | 苦しみは成長のとびら
昨日は、墓地の礼拝室での法話会。ここ2週間、喉の調子が悪い。2週間前に風邪をひいて、その影響が続いているのだろうと思っていたら、今朝、夜中につけいているクラーの影響で、声帯が乾燥しているためだと言うことに気がつきました。これは、毎年のことで、いつも気がつくのが遅い。マスクをして寝ることにします。

法話会で法話が終わって、皆さんとお茶を飲んでいると、4歳と2歳の孫娘が、お母さんに言われたのであろう、皆さんの間と通って、私にお菓子を届けてくれました。4歳になったばかりの子は、皆さんの視線を受けて恥ずかしそうにしていました。手を引かれてついてきた2歳の子は、恥ずかしい気持ちはありません。

4歳の子の、初めての羞恥心を見たのは、3年保育で、幼稚園の制服を着て、我が家に来たときです。そのことからして羞恥心は3歳くらいから目覚めるのでしょう。


ネットで検索すると駒沢女子大学教授で心理学者の富田隆氏は、羞恥心を次のように解説しています。

「羞恥心を抱くと、同時に自分が無防備だと感じることがあります。人間も他の動物も、自分が無防備で、襲われれば危ない状態の時に恐怖や危機感を感じます。 ところが人間だけは、物理的な危険性だけでなく、仕事で失敗したり、弱点を見られた時など、集団の中で評価が下がることにも危機感を感じ、それを知られることが『恥ずかしい』という感情につながる。」

羞恥心って、面白そうです。
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苦しみに寄り添う意味

2018年06月27日 | 苦しみは成長のとびら
仙台での研修会で“浄土真宗の徒が苦しみに寄り添う意味”について、お伝えしました。

苦しみとは何か。通常、現実と希望のギャップだとされます。たとえば、ケアについて村田理論と言われる見識をおもちの村田久行氏(京都ノートルダム女学院特任教授)の『援助者の援助―支持的スパービジョンの理論と実際』に、次のようにあります。

キュア(cure)とケア(care)  一対人援助への2つのアプローチ
このように、苦しみというものがそのひとの投げ込まれた客観的な状況と、その想い・願い・価値観との「ズレ」から生み出されているのであるなら、「援助」とは、この「ズレ」を小さくすることではないだろうか、そしてそれには苦しみの構造の解明から、キュア(治療)とケア(看護)という2つの援助へのアプローチが存在がすることに気がつくのである
それは
① 患者の客観的な状況を変化させ、それを主観的な想い・願い・価値観に合致させる「キュア(治療)」という援助と、
② もはや客観的状況を好転させることが不可能な場合、キュアとは逆に、患者自身の主観的な想い・願い・価値観がその客観的状況に沿うように変わるのを支える「ケア」という援助である。(以上)

苦しみの理解が、現実と希望のギャップとするならば、苦しみに寄り添うというのは、その人の欲望に寄り添うことにおちいることもあります。

しかし仏教では、苦しみの原因を「渇愛」、思い通りになったことだけにしか喜びを感じるのとのできないとらわれの心だとします。この場合、苦しみに寄り添うとは、渇愛が洞察されていく場に寄り添うということになります。苦しみをなくすという視座ではなく、ともにいることによって、苦しみの原因である渇愛、自己の愚かさが明らかになっていくのです。それが苦しみの寄り添うことの意味です。
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子どもは善悪をどのように理解するのか

2018年05月19日 | 苦しみは成長のとびら
『子どもは善悪をどのように理解するのか?―道徳性発達の探究』(長谷川真里著・2018年2月15日)

この本で「道徳性心理学」というものがあることを知りました。以下のようにあります。

心理学において、道徳とは、人々が善悪をわきまえて正しい行為をなすために守り、従わねばならない規範の総体と定義される。これは、外面的、物理的強制を伴う法律とは異なり、自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働くものである。そして、道徳性心理学とは、道徳に関わる人間の行動や心理について、心理学的な手法で解明する学問である。(以上)

 赤ちゃんはどう善悪を理解しているのか。本の中から一つだけ取り上げてみます。

赤ちゃんは罪と罰を理解しているのだろうか。第1章で見たように、ゼロ歳代の赤ちゃんであっても道徳的センスは非常に高い。では、善悪判断のみならず、赤ちゃんは公平感をもっているのではないか? 答えはイエスのようである。ブルームらのグループが行った次の実験を見てみよう。

 まず、赤ちゃんは、ふたを開けようとしている人形を手伝う「いい者」の人形、ふたを閉める「悪者」の人形を見せられた。続いて、このいい者、または悪者が、新たに登場した別の人形にボールを転がすという、別の場面を見せられた。その際、新たな人形の片方はボールを転がして返すという親切行動を行うが、新たな人形のもう片方はボールを抱えて逃げるという意地悪な行動をした。では、赤ちゃんは、「いい者に親切行動をする人形」「いい者に意地悪な行動をする人形」「悪者に親切行動をする人形」「悪者に意地悪な行動をする人形」のどれに手を伸ばすのだろうか。その結果、五ヵ月児は、やりとりをする相手がいい者、悪者であろうとなかろうと、親切な人形を好んだ。しかし、八ヵ月児は、悪者に親切な人形より、悪者に意地悪な人形を好み、手を伸ばした。つまり、正しい罰を好むと推測できるのである。

 このように、人間は、罰についてかなりの初期から理解を示す。その理由は、進化心理学の理論を引用しなくとも常識で理解できる。将来的に同様の行為の再発を予防するためである。だからこそ、最初の逸脱行為よりも「悪さの程度の高い」仕返しは不公平になるのだ。また、最初の行為に対しあまりにも軽い罰では、再発を予防できないのだ。この釣り合いこそが、矯正的正義の勘所だ。(以上)

善悪のとらえかたは、発達段階によって異なるが、自分にとって心地よいと思えることが基本となるようです。
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