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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

ある人との会話

2018年04月11日 | 苦しみは成長のとびら
Yさんとの会話です。(第三者にお話することの了解を得ています)

Yさん 女が一人で生きていくことは大変です。

私   何かありましたか。

Yさん 主人がなくなって8年になります。先日、ある人に「個人年金と遺族年金で生活しているんでしょ」と言われてショックでした。

私   ご主人が亡くなって得て、お金なので負い目を感じたのですか。

Yさん なにか見下げられているような気がしました。

私   そうですか。   

Yさん すごくショックで、傷つきましたが、わたしも気づかないところで、他人を傷つける言葉を言っているのかもしれないと思いまし    た。

私   すごいねすね。Yさん。自分が傷ついた中ででも、自分も他人を傷つけているかも知れないと思われたのですね。それってすごい    ことことですよ。

Yさん 娘の頃、母が「人生は一生勉強だよ」と言ったことがあったけど、あの勉強って、こうしたことなんですね。
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危機後の成長②

2018年04月08日 | 苦しみは成長のとびら
一昨日の『危機の心理学』(放送大学教材)の中にある論文『危機後の成長』(星薫氏)の続きです。危機後の成長にとって個人の資質的な面で重要なことが説かれています。

キングとヒックス(King & Hicks, 2007)の研究から,…キングらは,危機を経験した後に,成熟を果たすことができるためには,「驚き」「謙遜さ」「勇気」という3つの要素が不可欠であると指摘する。人間は当然ながら未来を予測することなどできない。だから人生には計算違いは確実に起こる。驚く,あるいは人生に驚かされたと認める能力は,成人の発達にとって,本質的に必要な要素である。また,驚くことができるための背景には,謙遜さの感覚が宿っているだろう。謙遜さとは,自分がいかに弱く,いかに小さな存在であるかを認めることができる能力である。しかし,謙遜さと自己卑下とは別物である。自分を矮小化して見るのではなく,自分の能力や業績は正当に評価しつつ,一方そのような自分にもまた,予測不可能なことが数多くあることを,認めることで,自分の経験についての認識を積極的に調節することができる。そして,受け入れ難い未来を受け入れ,期待を裏切られた後で再び,人生に新たな期待を抱くことは,勇気を要することである。大きな人生の移行後に,幸福感を持つことができるためには,人生に残された可能性を,再び受け入れ期待する勇気が不可欠なのである。(以上)

“謙遜さとは,自分がいかに弱く,いかに小さな存在であるかを認めることができる能力である。”とありますが、自分の弱さを認めることは、浄土真宗の教えと共通するものがあり、浄土真宗の視点から『危機後の成長』を考えることも重要です。
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苦悩することの希望

2018年02月26日 | 苦しみは成長のとびら
浮ケ谷幸代さん関連の本に『苦悩することの希望:専門家のサファリングの人類学』(浮ケ谷幸代編著;阿部年晴[ほか]著)があります。

題名に興味を持ちます。わたしの「苦しみは成長のとびら」という言葉がありますが、成長を「希望」と表わしています。本自体は読んでいませんが、『サファリングとケア、その創造性』浮ヶ谷幸代(相模女子大学)に次のようにあります。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jasca/2013/0/2013_55/_article/-char/ja/より転載

苦悩と創造性に関しては、精神科医のエランベルジュによって「創造の病い」として示唆されており、精神科医の中井久夫もまた新興宗教の宗祖、中山ミキに病いの創造性を見出している。このことは、サファリングのもつ否定的な側面を越えて、サファリングとケアとの不即不離の関係と、サファリングに内在する微かではあるが確かなる「希望」として捉えられる視座の可能性を示唆している。(以上)

研究は、まだまだ入り口のようです。
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抜けた髪を汚いと思う心理

2018年02月24日 | 苦しみは成長のとびら
一昨日の浮ケ谷幸代関連の本に『身体と境界の人類学』があります。

その本の中に

「目の前に自分の髪の毛が落ちていたら、なぜ汚いと思うのだろうか」「丁寧に手入れされている女性の爪は、ネイルアートを施していなくても、今日、美的鑑賞に堪える身体装飾の一つとなっている。ところが、切り落とされたその一部は鑑賞の対象とはならない。むしろ、一刻も早く目の前から除去すべきものとなる。それは、なぜなのだろうか。」
「唾液は口の中にあるとき、ほとんど意識されない。ところが、囗から吐かれた唾液は、たとえ自分の唾液であっても、大変汚いものに感じる」「耳垢は、鼻糞は、目やには、汗は、尿や便はどうだろうか。身体の中にあるうちは、自分の身体の一部であり、汚いとは感じない。それが身体の外部に出て、他人にそれを指摘されたり、自分でそれを意識したとき、汚く感じるのである。」

なぜかという問題を説いています。本に書かれた答えは次の通りです。

身体から離れたとき、それは微妙なものとなる。もはや自己の一部ではなく、かといって完全に「非自己」(集合非A)ということもできないような、あいまいな中間領域に位置することになる。あるべきところにないもの(集合Aと集合非Aとの境界に位置するもの)は、人に不安や落ち着きのなさを抱かせる。あるべきところ、あるべきものというように、それ以外の場所、それ以外のものとの区別は、私たちが「つつがなく(無病息災である、異状がない、無事である)」日常生活を送るうえで不可欠な認識の仕方なのである。けれども、身体から離れた身体の一部は、そうした「つつがない」日常を壊す(日常からはずれる)ものとして、あるべきところにないものとして、人々に認識される。だから、「汚い」「気持ち悪い」「居心地悪い」「不安」だと思われるのである。「つつがない」日常は、人やもの、概念の区別を前提とする「秩序」に支えられている。その秩序を壊すような人やものの存在は、私たちがふだん意識していない「境界」という観念を明るみに出す。


 秩序を乱すような事物のありように対する拒否感や嫌悪感は、社会を秩序化するための重要な要素となっている。見方をかえれば、私たちの穢れをめぐる行動とは、社会的な分類を混乱させたり、無効にしたりする観念、あるいは分類に当てはまらない「あいまいでどっちつかず」の人や事物、観念、状態を「拒否」「否定」「排除」しようとする反応に他ならないのである。(以上)

いかがしょうか。
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サファリングの創造性

2018年02月22日 | 苦しみは成長のとびら
拙著に『苦しみは成長のとびら』という本があります。人は苦しみを通して、新しい価値観を手に入れるといったことを書いた本です。苦しみを通して成長するという概念をサファリングの創造というようです。サファリングとは、Sufferingと書き、〔精神・肉体的〕苦しみ、苦痛、悩みをいうようです。


県立の図書館から浮ヶ谷幸代さんの本を3冊借りてきました。その中に一冊に『苦悩とケアの人類学―サファリングは創造性の源泉になりうるか?』浮ヶ谷幸代編があります。

本の紹介には「生きる、老いる、病む、死ぬ――すべての人間の生に、サファリング(苦悩の経験)が伴っている。それを否定することなく、どう向き合い、生きぬくのか。国内外のフィールドから、苦悩の経験とケア実践のあり方を民族誌的に描き出す。」とあります。

その序章に次のようにあります。

本書では、サファリッグを抱えている人びともしくはコミュニティがサファリングに向き合うことで、サファリングに対処する術(生き方も含めて)が編み出され。またアイデンティティの組み直しがなされることを「ファリングの創造性」と位置づけている。(以上)

本の内容には、あまり関心が持てませんでしたが、私の「苦しみは成長にとびら」と「サファリングの創造性」は同じ概念のようです。
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