築地本願寺で「がん患者・家族語らいの会」をはじめて30年以上になります。なぜこの集いを継続しているのか。なぜ僧侶が関わっているのか。それは苦しみの体験は、新しい自分と出遇うチャンスにとなるという考え方に基づいています。
『真実を伝える―コミュニケーション技術と精神的援助の指針』 (日本語・ 2000/2/1 ロバート バックマン著)は、がん告知や、終末期にあることをどのように本人に伝えるかを書いている本です
その本に「第2章 悪い知らせを伝えることはなぜ難しいのか」とあり、そこには、社会的要因、個人的な要因、医師の側の要因など、事細かく記されています。
社会的な要因
現代の西洋社会の大部分において、最も価値があり賞賛されるものとして、若さ、健康、そして富がある。このこと自体は、良いとも悪いとも言えない。年齢が最も尊ばれ、人間の特質と崇められる社会では、人生はよりすばらしく、より公正であるとは限らない。これは、世界の大多数の先進国における価値観にすぎない。しかし、このために支払われなければならない代価がある。つまり、若さ、健康、そして富のない人々、つまり高齢者、病人、そして貧困者によって代価が支払われているのである。これらの人々は、現代の言葉で表現すれば、社会の主流からはずれ、社会の辺縁に位置すると見なされることになる。したがって医療従事者が誰かに病気があると伝えなければならない時は、大なり小なり、①健康という蓄えが消滅しつつあること、②社会の主流からはずれる集団の一員に近づいていること、③そして誰のせいでもないが社会的価値が失われつつあること、を伝えることになる。(以下省略)
患者側の要因
病気がもたらす衝撃は、個々の患者の人生の状況の中においてしか、評価し得ないものである。例えば軽度の変形性足関節症は、普通の生活に、それほど大きな影響を与えないかもしれないが、フットボールの選手やバレーのダンサーにとっては生活を根底から覆されることになる。すべての医療従者が一人一人の患者の生活を十分に把握し、医学的診断が患者に与える衝撃を十分に評価することは、明らかに非現実的であり不可能なことである。たとえ可能であったとしても、医師や看護婦が、すべての患者の人生のために生きくることを求められているわけではない。しかしながら、悪い知らせを伝える際の技術として、病気が患者に与える衝撃をより理解できる方法を用いることは可能能である。このことは第4章において述べる、悪い知らせを伝えるアプロー1・の第2段階と第3段階の重要な点となる。
医師側の要因
「苦痛をもたらすことへの恐れ」
悪い知らせは、それを伝えられた人に苦痛をもたらす。医療従事者は苦痛をもたらす行為を当然のことながら、不快に思うものである。
「共感による苦痛」
悪い知らせによってもたらされた苦痛を受けている人と一緒にいることが、いかに苦痛であるかを私達は経験している。
「非難されるのではないかという恐れ」
「治療が失敗したのではないかという恐れ」
「教えられていないことに対する恐れ」
悪い知らせを適切に伝える方法を教えられていなければ、それを行うことを
恐れることになる。
「わかりません」ということへの恐怖(以上)
引用するまでも無い事でしたが、社会的にも個人的にも、その人が握りしめているものがあり、それが壊れる体験が苦しみです。逆に言えば、苦しみを通して、自分が現実の中で握りしめているものが明かになる、それは新しい自分に開かれていく機縁ともなるからです。
ちなみに先の本、本当のことをどう伝えるかの核心は「伝える側と伝えられる側が、いかに情報を分かち合うか」ということにあるようです。
『真実を伝える―コミュニケーション技術と精神的援助の指針』 (日本語・ 2000/2/1 ロバート バックマン著)は、がん告知や、終末期にあることをどのように本人に伝えるかを書いている本です
その本に「第2章 悪い知らせを伝えることはなぜ難しいのか」とあり、そこには、社会的要因、個人的な要因、医師の側の要因など、事細かく記されています。
社会的な要因
現代の西洋社会の大部分において、最も価値があり賞賛されるものとして、若さ、健康、そして富がある。このこと自体は、良いとも悪いとも言えない。年齢が最も尊ばれ、人間の特質と崇められる社会では、人生はよりすばらしく、より公正であるとは限らない。これは、世界の大多数の先進国における価値観にすぎない。しかし、このために支払われなければならない代価がある。つまり、若さ、健康、そして富のない人々、つまり高齢者、病人、そして貧困者によって代価が支払われているのである。これらの人々は、現代の言葉で表現すれば、社会の主流からはずれ、社会の辺縁に位置すると見なされることになる。したがって医療従事者が誰かに病気があると伝えなければならない時は、大なり小なり、①健康という蓄えが消滅しつつあること、②社会の主流からはずれる集団の一員に近づいていること、③そして誰のせいでもないが社会的価値が失われつつあること、を伝えることになる。(以下省略)
患者側の要因
病気がもたらす衝撃は、個々の患者の人生の状況の中においてしか、評価し得ないものである。例えば軽度の変形性足関節症は、普通の生活に、それほど大きな影響を与えないかもしれないが、フットボールの選手やバレーのダンサーにとっては生活を根底から覆されることになる。すべての医療従者が一人一人の患者の生活を十分に把握し、医学的診断が患者に与える衝撃を十分に評価することは、明らかに非現実的であり不可能なことである。たとえ可能であったとしても、医師や看護婦が、すべての患者の人生のために生きくることを求められているわけではない。しかしながら、悪い知らせを伝える際の技術として、病気が患者に与える衝撃をより理解できる方法を用いることは可能能である。このことは第4章において述べる、悪い知らせを伝えるアプロー1・の第2段階と第3段階の重要な点となる。
医師側の要因
「苦痛をもたらすことへの恐れ」
悪い知らせは、それを伝えられた人に苦痛をもたらす。医療従事者は苦痛をもたらす行為を当然のことながら、不快に思うものである。
「共感による苦痛」
悪い知らせによってもたらされた苦痛を受けている人と一緒にいることが、いかに苦痛であるかを私達は経験している。
「非難されるのではないかという恐れ」
「治療が失敗したのではないかという恐れ」
「教えられていないことに対する恐れ」
悪い知らせを適切に伝える方法を教えられていなければ、それを行うことを
恐れることになる。
「わかりません」ということへの恐怖(以上)
引用するまでも無い事でしたが、社会的にも個人的にも、その人が握りしめているものがあり、それが壊れる体験が苦しみです。逆に言えば、苦しみを通して、自分が現実の中で握りしめているものが明かになる、それは新しい自分に開かれていく機縁ともなるからです。
ちなみに先の本、本当のことをどう伝えるかの核心は「伝える側と伝えられる側が、いかに情報を分かち合うか」ということにあるようです。