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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

真実を伝える

2020年05月07日 | 苦しみは成長のとびら
築地本願寺で「がん患者・家族語らいの会」をはじめて30年以上になります。なぜこの集いを継続しているのか。なぜ僧侶が関わっているのか。それは苦しみの体験は、新しい自分と出遇うチャンスにとなるという考え方に基づいています。


『真実を伝える―コミュニケーション技術と精神的援助の指針』 (日本語・ 2000/2/1 ロバート バックマン著)は、がん告知や、終末期にあることをどのように本人に伝えるかを書いている本です
その本に「第2章 悪い知らせを伝えることはなぜ難しいのか」とあり、そこには、社会的要因、個人的な要因、医師の側の要因など、事細かく記されています。

社会的な要因

現代の西洋社会の大部分において、最も価値があり賞賛されるものとして、若さ、健康、そして富がある。このこと自体は、良いとも悪いとも言えない。年齢が最も尊ばれ、人間の特質と崇められる社会では、人生はよりすばらしく、より公正であるとは限らない。これは、世界の大多数の先進国における価値観にすぎない。しかし、このために支払われなければならない代価がある。つまり、若さ、健康、そして富のない人々、つまり高齢者、病人、そして貧困者によって代価が支払われているのである。これらの人々は、現代の言葉で表現すれば、社会の主流からはずれ、社会の辺縁に位置すると見なされることになる。したがって医療従事者が誰かに病気があると伝えなければならない時は、大なり小なり、①健康という蓄えが消滅しつつあること、②社会の主流からはずれる集団の一員に近づいていること、③そして誰のせいでもないが社会的価値が失われつつあること、を伝えることになる。(以下省略)


患者側の要因

病気がもたらす衝撃は、個々の患者の人生の状況の中においてしか、評価し得ないものである。例えば軽度の変形性足関節症は、普通の生活に、それほど大きな影響を与えないかもしれないが、フットボールの選手やバレーのダンサーにとっては生活を根底から覆されることになる。すべての医療従者が一人一人の患者の生活を十分に把握し、医学的診断が患者に与える衝撃を十分に評価することは、明らかに非現実的であり不可能なことである。たとえ可能であったとしても、医師や看護婦が、すべての患者の人生のために生きくることを求められているわけではない。しかしながら、悪い知らせを伝える際の技術として、病気が患者に与える衝撃をより理解できる方法を用いることは可能能である。このことは第4章において述べる、悪い知らせを伝えるアプロー1・の第2段階と第3段階の重要な点となる。

医師側の要因
「苦痛をもたらすことへの恐れ」
 悪い知らせは、それを伝えられた人に苦痛をもたらす。医療従事者は苦痛をもたらす行為を当然のことながら、不快に思うものである。
「共感による苦痛」
 悪い知らせによってもたらされた苦痛を受けている人と一緒にいることが、いかに苦痛であるかを私達は経験している。
「非難されるのではないかという恐れ」
「治療が失敗したのではないかという恐れ」
「教えられていないことに対する恐れ」
 悪い知らせを適切に伝える方法を教えられていなければ、それを行うことを
恐れることになる。
「わかりません」ということへの恐怖(以上)

引用するまでも無い事でしたが、社会的にも個人的にも、その人が握りしめているものがあり、それが壊れる体験が苦しみです。逆に言えば、苦しみを通して、自分が現実の中で握りしめているものが明かになる、それは新しい自分に開かれていく機縁ともなるからです。


ちなみに先の本、本当のことをどう伝えるかの核心は「伝える側と伝えられる側が、いかに情報を分かち合うか」ということにあるようです。
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スピリチュアルケアの要諦

2020年03月27日 | 苦しみは成長のとびら
柏市の図書館は、相変わらず閉鎖ですが、県立の図書館は特別の窓口でリクエストした本の貸し出しだけは行っています。県立の図書館で『生――生存・生き方・生命 (自由への問い 第8巻)』 (加藤 秀一編集)を借りてきました。この本の中に、奥山敏雄筑波大学教授〔死にゆく過程の構築と生の意味をめぐる自由〕という論文が目当てでした。
奥山敏雄筑波大学教授は、
「スピリチュアルケアにおける死にゆく患者と医療者との対話」「死の受容と最後の成長−−キュブラー=ロスの死にゆく過程論の変容—」「近代ホスピスの形成とシシリー・ソンダースの位置」「宗教的ケアとスピリチュアルケア」「田代志門著『死にゆく過程を生きる』(世界思想社)を読む」「死と社会--終末期医療の社会学的意味--」「生の意味の位相とスピリチュアルケアの深度」等の論文を書かれており、以前から読んでいた方です。

標記の本から、気になる部分だけ転載しておきます。

 特定の自己実現への固着、特定の自己-他者関係への固着ではなく、そうした固着が解体させられ、何かを達成することによる意味の調達が不可能となるなかで、生きることがわれわれに問いかけてくる。死に直面し、苦しみと向き合い、この苦しみを与える《今ここ》の生こそが、「全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだ」と感受されねばならない。日常的役割自己としての生きること、その意味ではなく、そうした自己を解体させてしまうような、死に直面し苦しみにあえぐ《今ここ》の一瞬一瞬の生か突きつけてくる問いかけに、具体的に応答しなければならないのである。
 その問いかけに応答することにより、自己を超えた世界へ、世界の偶有性へと開かれていく。この自己超越性を生き抜くことは、自分自身を自己実現に関与させることによってではなく、むしろ逆に自分白身を手放すこと、自分自身の外側に関心を集中させることによってなされる。

ソンダースによれば、スピリチュアルケアの要諦は、他者を理解し他者に何かをしてあげることではなく、それらが不可能な地点で死にゆく他者との絶対的隔絶にとどまり続けることだという。なぜなら、死にゆく人はそれまで身につけてきた仮面や被いを取り払い、他者にもその人自身として目の前に立つことを求め、一切の防衛をなくし、相手の言葉に耳を傾け、傷つくことができることを求めるからだ。つまり死にゆく人は、自己物語が解体し役割存在としての自己が総じて溶解することにより、はじめて他者との絶対的隔絶に曝されることになり、自己欺瞞に鋭敏になるのだ。自己も他者も、やがて死すべき者として《今ここ》に出会っていることが感受されるからである。(以上)
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失敗の科学

2020年03月26日 | 苦しみは成長のとびら
『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』 (2016/12/23・マシュー・サイド著・有枝 春翻訳)には、人や企業が何故失敗するのか、失敗の意味や問題点を種々、実例をもって説いている本です。著者のもっとも言いたいところは、次の点のようです。以下、転載です。


ここまで科学の歴史などを大局的に追ってきたが、より焦点を絞って、失敗から学ぶ力を具体的に発揮する方法を考えていこう。
まず何よりも重要なのは、失敗に対する考え方に革命を起こすことだ。これまで何世紀にもわたって、失敗はまるで汚らわしいもののように扱われてきた。
 この考え方は現在も依然として残っている。だから子どもたちは[間違えたら恥ずかしい…]と思い込み、教室で手を挙げることができない。医者は失敗を認めず、政治家は政策を検証しない。非難やスケープゴートが日常的に見られるのも、背景となる考え方は同じだ。
 ビジネスリーダーや教師ばかりでなく、我々も社会人として、また親として、失敗に対する考え方を変えていかなくてはならない。子どもたちの心に、失敗は恥ずかしいものでも汚らわしいものでもなく、学習の支えになるものだと刻み付けなければならない。
互いの挑戦を称え合おう。実験や検証をする者、根気強くやり遂げようとする者、勇敢に批判を受け止めようとする者、自分の仮説を過信せず真実を見つけ出そうとする者を、我々は賞賛するべきだ。
 [正解]を出した者だけを褒めていたら、完璧ばかりを求めていたら、「一度も失敗せずに成功を手に入れることができる」という間違った認識を植え付けかねない。複雑すぎる社会では、逆にそうした単純化が起こりがちだ。もしその間違いを正すことができれば、我々の生活に革命が起こると言っても過言ではない。失敗に対する自由な姿勢は、企業、学校、政府機関などほぼすべてのあり方を変える。もちろん簡単なことではないし、抵抗も受けるだろう。しかしその壁を乗り越えていくだけの価値はある。
 ブライアン・マギーは、カール・ポパーの反証主義を引き合いに出してこう言っている。

自分の考えや行動が間違っていると指摘されるほどありかたいものはない。そのおかげで、間違いが大きければ大きいほど、大きな進歩を遂げられるのだから。批判を歓迎し、それに対して行動を起こす者は、友情よりもそうした指摘を尊ぶと言っていい。己の地位に固執して批判を拒絶する者に成長は訪れない。我々の社会に大きな転換が起こり、ポパー的な反証主義で批判をとらえる姿勢が広く浸透すれば、私生活にも、社会生活にも革命が起こり得る。もちろん、仕事をする上でも例外ではない(『哲学と現実世界―カール・ポパー入門』アライアン・マギー著)。(以上)
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患者が実存的転換

2020年03月24日 | 苦しみは成長のとびら
2011年11月11、13日に、このブログで、ロゴセレピーという、アウシュビッツの体験談「夜と霧」の作者であい精神科医・哲学者、ヴィクトール・E・フランクルが創始した精神療法について紹介しました。このフランクル精神療法は「実存カウンセリング」ともいわれて取り組まれています。

図書館が休みなので書庫にあった『実存カウンセリング』 (21世紀カウンセリング叢書・2002/3/30・永田 勝太郎著)を読み返していたら、がん患者の人格的変容について紹介されていました。興味深いので転載しておきます。

 フランクルにより提唱された実存分析の本質は人間の精神における人間固有の自由性、しかも責任を伴う自由を行使させ、治療に応用しようというところにある。患者の内なる精神の自由性と責任性に自ら目覚めさせ、運命や宿命に抵抗する自由もあることに気づかせ、そこから、その患者独自の人生の「意味」を見出させようとするものである。その結果、患者が実存的転換(人格的変容)に到達するものである。

従病(しょうびょう)的態度に至った患者群の行動特性

我々の経験では、時に、癌の患者がその「頑固さ」から抜け出て、「素直でしたたか」な態度へと行動変容することがある。このような症例が実存的な態度変容を為し遂げ、ついには癌すら乗り越えてしまうことがある。こうした態度変容を「従病」(しょうびょう)という。すなわち、病にしたがったふりをして、逆に病を従えてしまうしたたかさである。
 ここでは我々が経験した従病的態度変容に至った症例に共通していると思われる項目を挙げてみる(臨床経験から)。

① 癌の発症前は依怙地な性格、頑固なライフスタイルを維持し、他人の意見を聞き入れるような柔軟性に欠ける。

② 発症後、何かのきっかけで、言わば、「至高体験」と言えるような体験がある。
それは豊かな自然や人間との暖かい交流の中で、体験することが多い (体験価値)。

③ そうした体験を契機に、「生かされて、生きている」自らの生命の本質・尊厳について深い洞察を得る。すなわち、自らの生命は時間内存在(誕生から死までの限られた時間内での存在)であり、関係内存在(自然環境、人間環境などのさますまな関係の中で「生かされて生きている存在」であることへの気づき)であり、自己の存在そのものが自然の一部であることに体験的に気づく。それは第三者から見ると、驚くほどの急速な態度変容であり、「頑固」から「素直」になったように見える。
 患者は、こうした体験的認識を踏まえ、自らの生命の尊さ(生命への尊厳)、「生きることの意味」について再考し、自己の人生に自信を持ち、自分にはまだすべきことがあり、死んではいけない生命の重さを有していることに気づいてゆく。生きることへの責任への気づきである。また、そうした場合、なんらかの人生の目的ができる。
 それは患者にとっての「生きる意味」であり、どんなささやかなもの、どんな日常的なものでも良い。
 こうした過程のなかで、患者に「したたかさ」が発現してくる。何とかしてそれをやり抜こうという強い意志の現れである。
 こうした態度を従病と言う。すなわち、病に従った振りをして、逆に病を従えてしまうほどのしたたかさである。これこそが人間のみに与えられた高度精神機能であろう。

④ このような過程のなかで患者は悲観的人生観から楽観的人生観へと転換してゆく。
患者は日常のありふれた事象に対し喜びを見出し、美しいものを美しいと認識し、人生を楽しむようになる。
 さらに患者はユーモアをもつようになり、朗らかになる。自分の置かれた事態に対して、「なぜ?」と問うのではなく、「いかにすべきか?」を問うような方向へと態度を変容してくる。
 こうした態度の変化が第三者から見ると「素直」になったように見られる。

⑤ 周囲 のすべてに対し、素直に「感謝」するようになる。他人との出会いを喜ぶようになり、一期一会の精神を実践するようになる。

⑥ 以上 のような患者の態度変容には治療側の体制が大きく関係している。まず、患者を中心にした治療チームができ、治療者側、患者・家族のチームリーグが良くなくてはならない。治療者側は患者のQOLを高めうるような様々なケアの万法を、家族の協力も得て積極的に行う。
 すなわち、十分行き届いた身体的なケア、特に疼痛管理・食事管理(栄養管理)が十分にできることが絶対的条件である。
 さらに心理的ケア、家族をも参加させた徹底したチーム医療など多くの要素が機能的に慟かなくてはならない。それらがすべて協調しないとこうした従病的態度は発生しない。もちろん、患者に対し、治療者と患者の信頼関係(治療者と患者間の相互主体的関係)に則った十分なインフォームドーコンセントが成されることが絶対条件である。

⑦ 治療 チームのいずれもが自らの医療観、死生観を向上させるような努力を絶えず怠らず、こうした患者との出会い、ケアできることを喜びとすることができる。
 すなわち患者から学ぶ姿勢があり、自己の人格的成長を願うことができる。そして患者の抱える多くの問題、特に患者の実存レベルまで受容でき、支持でき、保証を与えることができる。。
 我々の経験では、こうした患者が時に癌がありながらも、驚くほど回復し、癌性疼痛の苦痛から脱却し、生存期間を伸ばし、QoL(生命の質)を高めることができるようである。彼らの免疫能を測定するとかなり高い状態を維持していることも事実である。
 池見らの癌の白然退縮例七四例の詳細な検討の報告‐11を見ても、身体面では免疫・アレルギー的な影響がもっとも顕著であり、心理面では、いわゆる実存的転換などの実存的な因子が認められていた。

 しかし、こうした方法の普遍化は困難である。実際のところ、残念ながら我々はいまだ癌患者に対し、こうした実存的気づきを導入することができない。
また、その方法論の適応と限界もに十分に明確とは言えない。否、むしろ研究自体もその緒に就いたばかりと言えよう。今後さらに多くの症例での経験を積み、科学的方法としてのシステム化を図って行かねばならない。(以上)
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健康志向か

2020年03月06日 | 苦しみは成長のとびら
元旦の朝、近所のコンビニに五大新聞を買いにいったとき、セブンイレブン、フイミリーマート、ローソンの三店で、申し合わせたように『朝日新聞は置いていません』といわれ、私の近隣は、住宅街なので、住宅街の人は『朝日新聞』は配達で購入する人が多い。それでこの辺りのコンビニには置いていないという仮設をたてました。それは元旦のこと。

今日未明のウオーキング中、セブンイレブンにより、牛乳を飲みながら、雑誌コーナで雑誌の表紙をみていました。興味深く思ったのは、初老者向けの内容を掲載した雑誌の多さです。「免疫力を上げる 名医のワザ」「内臓脂肪を‥」「肩甲骨をはがす‥」「いつまでも元気 三大条件」「中性脂肪 コレストロールを下げる」「体の不調、自律神経‥」などなどです。年配者が多く住む住宅街のなかにあるコンビだから、この傾向が多い、と思と最初に思いました。次に思ったことは、「いや、私の側にこうした話題への興味があったので、目についたのかも知れない」と回想しました。また次に思ったことは「近年、こうした話題の特集を組むと売れるので、雑誌の特集が健康志向が多い」、全ての当てはまるのかも知れません。

まあもう一店見てみようと、コンビニをハシゴしました。つぎは県道横にあるフアミリーマート。店の規模が小さいのか、雑誌コーナは、一店目の四分の一、健康記事は二冊ありました。一般の本も30冊くらいおいてありましたが、その少ない本の列に『本当は恐い仏教の話』『いちばんやさしい仏教とお経の本』『日本の古寺100の秘密』の三冊が置かれてありました。「へー、コンビニで仏教書も売れるんだ」という感想。

仏教が「時代遅れ」とは「年寄りの話」ではなく、一般常識で興味を持たれる時代になったかと思ったことです。
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