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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

苦悩する人々にわれわれができること

2020年08月20日 | 苦しみは成長のとびら
今朝の『産経新聞』(2020.8.20)「正論」に、「苦悩する人々にわれわれができること」山崎章郎氏が、この度の安楽死殺人について執筆されていました。最後の部分だけ転載します。

 苦しい思いに耳を傾け
 ところで、全ての人は、生まれてから、死ぬまで他者との関係性の中で生きており、その他者との関係性の中で、その時々の自己を認識している。
 例えば、喜怒哀楽という自己認識も、全て、その時の他者との関係性に依拠していることに異論はないだろう。
 とすれば、生きる意味がないとか、早く死にたいと思わざるを得ない状況における自己認識もまた、その状況における、他者との関係性に依拠している、と言っても過言ではないだろう。
 しかし、そのような自己認識にいきなりたどり着くのではなく、その時の他者との関係性の中で、行きつ戻りつ、追い詰められて、そのような思いになるのだと思う。
 もし、そのような状況でも、自己肯定できるような他者が出現すれば、その他者との関係性の中に、その人は、新たな生きる意味や希望を見いだせるのではないだろうか。
 我々の役割は、そのような人々の苦しい思いに耳を傾け、その人が直面している困難に対して、具体的な支援を行い、共にその時を歩みながら、その人が自ら、自分にとっての、真に拠り所となる他者を見いだすことができるように支援することなのではないのか、と私は思うのである。
      (やまざき ふみお)
(以上)
「そのような状況でも、自己肯定できるような他者が出現すれば、その他者との関係性の中に、その人は、新たな生きる意味や希望を見いだせるのではないだろうか。」とあります。東京でのビハーラ活動も、どの様な状況にあっても自己肯定できる考え方、価値観、人間関係を模索し実践しています。
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追悼法要のお知らせ

2020年07月19日 | 苦しみは成長のとびら
下記、ご参加しませんか。追悼法要で私が40分法話をすることになっています。「する」といっても録画です。一昨日、坊守が外出時にお寺の本堂で撮影をし始めると電話かなりストップ。また録画を始める15分くらいして宅急便でした。でも何回か再収録したお陰で、良くなっていったことは確かです。下記に参加出来ない人も、開催日以降、動画で御覧下さい。

2020年8月1日(土)14時~ 

第3回がん患者・家族語らいの会・オンライン追悼法要 
講題:「念仏のみぞまこと」 講師:東京ビハーラ会長・西方寺住職 西原祐治氏
                          
第3回がん患者・家族語らいの会・オンライン追悼法要を開催いたします。
ご参加をご希望される方は、下記をご参照の上、お申込みをお願い致します。
また他にお知り合いの方で講演会にご興味のある方がいましたらご案内していただき、ぜひご一緒にご参加ください。

                              記


参加方法:参加を希望する方は、① 氏名 ② 携帯電話番号 ③ お持ちの(パソコン、タブレット、スマホ等)について入力の上、下記のアドレスまでご返信下さい。
参加費 : 無料
※動作確認を希望される方は動作確認希望とお書きください。
※すでに一度ご参加された方は参加希望とのみお書きくだい。
 連絡先:e-mail:urara.ota@gmail.com  担当太田
 参加締切日:2020年7月28日(火)
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『水の味』②

2020年05月13日 | 苦しみは成長のとびら

『水の味』(高原憲著)は、著者が医師として歩んだエピソードが多く収録されています。その中に一編です。

「先生、妹が産後一ヵ月になりますのに起き上れません。何か病気でもあるのじゃないでしょうか。診て下さいませんか。」と某婦人が、心配のあまり30になる妹の往診を求めに来た。三番目の女児を産んでから、一向に床を出ようとしない。
 一通り診察をしたが、手がかりがない。その時、病気でない病人ではないかという第六感がひらめいたという。以下転載です。

3番目は男児が生まれてくれたらと、心ひそかに望んでいた主人が勤めから帰ってくると、これはしたり、また女の児が生れているではないか。「また女の児を産んで!」と思わず口すべったこの一言が、物議の囚となったのである。「また女の児をとは、何たるいい分だろう。妻を慰めることも知らずに」と、陣痛の苦しみからやっと解放された彼女はぐっとなった。神様ではない限り、男なり女なり思うようになるものか、自分一人の責任に帰するとは何たる非道の夫であろう。今までいろいろつもっていた不平が、今だとばかり彼女の胸の中に一時にもえ上った。周囲の人々も妻側についた。十三対一というただならぬ対立が出現して、形勢は彼女の側に有利であった。それだけに逆せ上って来るのは妻の忿怒であり、またそれだけ彼女は病人となった。食欲は次第に減る、元気がなくなる。自業自得の病人が出来上ったわけである。
「明日主人が旅から帰って来たら、暇をとることに話をします。もう我慢が出来ません。」
「そうですか。男の味方をするわけではないが、あなたはけしからんぞ。これは偶然の出来事ではなくて、今日までのあなたの生活態度が間違っているからである。たまたまここに尾を出しただけである。あなたも心ひそかに男児なればと願ったことはないか。第三女が生れてほんとうに満足出来たかどうか。御主人にしてみれば、今度こそは男の児をと、望まれたのも無理はない。己にもまさった世つぎの男を、一人ほしかったのであろう。それが勝手な願いであることも存知のことであったろうが、思うようにならぬだけに淋しさもある。『また女の児を産んで!』ということも、ただその淋しさの表現でしかない。一番近いあなたの前であればこそである。ああほんとに相すまんことである。男児を生める私であったなら、主人もさぞよろこんだであろうに、女しか産めない業の私である故に、主人にも満足を与えることも出来ず、まことに相すまぬことです”と、心から詫ぶべきであった。今日までの生活態度がそうではなかったか。詫ぶべきことを知らず、主人の足もとばかり見るあなたではなかったか。」
 彼女は今日までの白‥分の態度を反省した。一夜、夜もすがら考えた。相すまぬことばかりであった。そして翌日旅から帰った主人に心から詫びるのであった。
 病人は数日にして床をはなれた。(以上)

昭和の早い時代の出来事なので、男尊女卑傾向もありますが、苦しみの大本を指摘した点は見事です。おそらく男女平等の現代で、上記のように苦しみの根源を指摘できるだろうかと本を読みながら回想したことです。
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『水の味』①

2020年05月12日 | 苦しみは成長のとびら
拙著『ポケットそよ風詩篇浄土の風』(探究社刊)に、下記の歌が掲載されています。

何もかも  
我一人の  
ためなりき
今日一日いのちたふとし

[高原 憲]『死の宣告をうけてー竹下昭寿・遺書』長崎・是真会病院医師.

『死の宣告をうけてー竹下昭寿・遺書』という書籍は、十年ほど前にご往生された長崎県教育長竹下哲氏の弟、竹下昭寿さんが、胃ガンのため三十歳でご往生された遺書的な書物です。

高原憲医師から、「竹下君、あんこはね、胃ガンなんだよ。君はもう半年くらいの寿命なんだよ。だから残された命を、お念仏を喜んで大事に生きようね」といわれて、色紙に書いて頂いた歌が標記の歌です。

昭和34年3月25日に、先生からがんの宣告を受け、4月17日にご往生。昭寿は宣告を受けたその日から、「兄ちゃん、僕たちは『歎異抄(たんにしょう)』を今まで勉強して良かった。今から毎朝兄ちゃんが出勤する前、僕の枕元で『歎異抄』を読んで頂戴」というのです。毎朝弟さんの枕元で『歎異抄』を広げて読んだといいます。30歳でした。

がんの宣告をした高原憲医師(明治25年~昭和45年)は、長崎県に生まれ、新渡戸稲造を慕って上京し一高に、そして毎週、近角常観先生の薫陶を受けた方です。

標記の歌を掲載するにあたりご子息に手紙を書くと『水の味』(高原憲著)を送って下さいました。新型コロナウイルス流行で図書館が休館のため、書庫にあった『水の味』(高原憲著)を再読しました。その中から一つのエピソードをご紹介します。(つづく)
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可能性が可能性を開いていく

2020年05月11日 | 苦しみは成長のとびら
ふと思ったことです。
その人を見つめている、あるいは共に歩んでいる人の眼差しの広さや深さが、その人の可能性を開いていく。たとえば、ある人が病気になり、その人が病気を治すことだけにしか希望を見出せない人たちに囲まれていたら、その病人は病気が治癒することだけにしか希望を見出せないのでしょう。ところがその病人を、「人は疾病を得ていても今を受容し、自分が自分で良かったと思える」という資質に開かれている人に囲まれていたら、その病人は、その人たちのまなざしを通して今を受容し、新しい自分に出会っていく可能性が開かれていくことでしょう。

阿弥陀仏がこの私をごらんになる眼差しは「平等の大悲」です。その仏さまの温もり願いに触れた、どの様の状態であっても自分自身にうなずいていける心が開かれていきます。

このことは短距離の百メートル争でも体操の難度の高い実技でも言えることで、その人のおかれている環境がその人の可能性を開いていくということです。

一つの体験や事実が、後の人の可能性となって、新しい体験を生み出していく。私がどのような眼差しをもって人と接し、共に歩んでいくか。大事な視点です。
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