今朝の『産経新聞』(2020.8.20)「正論」に、「苦悩する人々にわれわれができること」山崎章郎氏が、この度の安楽死殺人について執筆されていました。最後の部分だけ転載します。
苦しい思いに耳を傾け
ところで、全ての人は、生まれてから、死ぬまで他者との関係性の中で生きており、その他者との関係性の中で、その時々の自己を認識している。
例えば、喜怒哀楽という自己認識も、全て、その時の他者との関係性に依拠していることに異論はないだろう。
とすれば、生きる意味がないとか、早く死にたいと思わざるを得ない状況における自己認識もまた、その状況における、他者との関係性に依拠している、と言っても過言ではないだろう。
しかし、そのような自己認識にいきなりたどり着くのではなく、その時の他者との関係性の中で、行きつ戻りつ、追い詰められて、そのような思いになるのだと思う。
もし、そのような状況でも、自己肯定できるような他者が出現すれば、その他者との関係性の中に、その人は、新たな生きる意味や希望を見いだせるのではないだろうか。
我々の役割は、そのような人々の苦しい思いに耳を傾け、その人が直面している困難に対して、具体的な支援を行い、共にその時を歩みながら、その人が自ら、自分にとっての、真に拠り所となる他者を見いだすことができるように支援することなのではないのか、と私は思うのである。
(やまざき ふみお)
(以上)
「そのような状況でも、自己肯定できるような他者が出現すれば、その他者との関係性の中に、その人は、新たな生きる意味や希望を見いだせるのではないだろうか。」とあります。東京でのビハーラ活動も、どの様な状況にあっても自己肯定できる考え方、価値観、人間関係を模索し実践しています。
苦しい思いに耳を傾け
ところで、全ての人は、生まれてから、死ぬまで他者との関係性の中で生きており、その他者との関係性の中で、その時々の自己を認識している。
例えば、喜怒哀楽という自己認識も、全て、その時の他者との関係性に依拠していることに異論はないだろう。
とすれば、生きる意味がないとか、早く死にたいと思わざるを得ない状況における自己認識もまた、その状況における、他者との関係性に依拠している、と言っても過言ではないだろう。
しかし、そのような自己認識にいきなりたどり着くのではなく、その時の他者との関係性の中で、行きつ戻りつ、追い詰められて、そのような思いになるのだと思う。
もし、そのような状況でも、自己肯定できるような他者が出現すれば、その他者との関係性の中に、その人は、新たな生きる意味や希望を見いだせるのではないだろうか。
我々の役割は、そのような人々の苦しい思いに耳を傾け、その人が直面している困難に対して、具体的な支援を行い、共にその時を歩みながら、その人が自ら、自分にとっての、真に拠り所となる他者を見いだすことができるように支援することなのではないのか、と私は思うのである。
(やまざき ふみお)
(以上)
「そのような状況でも、自己肯定できるような他者が出現すれば、その他者との関係性の中に、その人は、新たな生きる意味や希望を見いだせるのではないだろうか。」とあります。東京でのビハーラ活動も、どの様な状況にあっても自己肯定できる考え方、価値観、人間関係を模索し実践しています。