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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

NICU命の授業から

2021年01月29日 | 苦しみは成長のとびら

1月9日土曜日(2021年)第8回がん患者・家族語らいの会がオンライン講演会、

講題 「周産期医療ドラマ「コウノドリ」の医療監修で伝えたかったこと・気づいたこと」講師 豊島勝昭氏について、過日紹介しました。

 

この先生のご著書『NICU命の授業: 小さな命を守る最前線の現場から 』(2020/8/19。・豊島勝昭著)を購入して読みました。講演の中でもお話しされていたことですが、その中から一つだけ転載して紹介します。

 

患者家族の軌跡

この子がいるからこそ知ることができた想い

 

告知を聞いて泣いた日

 ダウン症は、染色体異常によって起こります。私たちのNICUには、年間400人の入院患者さんのうち、毎年ダウン症の赤ちゃんは30人前後います。しかし、ダウン症だから入院するわけではありません。ダウン症の赤ちゃんは、心臓病や食道や腸の病気、血液の病気などがある場合が多いので、その治療のためにNICUに入院してきます。

 2008年に生まれたけいたくん。血液の病気で私たちの病院に運ばれてきました。重症だったので、ご両親には「もしかしたら3ヵ月以内にごくなってしまうかもしれません」ということと、顔つきなどから「ダウン                               症だと思います」とお伝えしました。その後、けいたくんの病状は回復し退院することができました。今もNICUフォローアップ外来で成長を見守らせてもらってます。       

 けいたくんのお父さんは小学校の先生です。このお父さんが勤めている学校で、いっしょに命の授業を続けてきました。けいたくんのお父さんが命の授業のときに、生徒さんに語っていた言葉を紹介します。

 「先生は、どんな子にも幸せになってはしいと願って、学校の先生になった。息子がダウン症だと告げられた日のことは忘れられない。病院から学校へ戻るために車を運転したときに、どしゃ降りで前が見えなくて、危ないと思いながら運転していた。でも、学校に戻って車から降りると雨なんて降っていなかった。どしゃ降りだと思っていたのは、先生の止まらない涙だったんだ。一生でいちばん泣いた日だと思う。先生は自分のことを差別や区別のない人間だと思っていだけど、息子がダウン症と言われたとき、すごく悲しかったんだ」(以上)

 

自分の心の中に、ダウン症実子を差別するこころがあったことを知って涙が止まらなかったという。スゴイ先生がいることに頭が下がりました。

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先に行くな

2021年01月15日 | 苦しみは成長のとびら

2021年1月8日金曜日、深夜便「明日へのことば」石岡ヒロ子(聖フランシスコ病院 シスター)『『生』と『死』を見つめるシスター』 、途中から聞きました。最後の言葉が良かったです。

 

以下

http://asuhenokotoba.blogspot.com/2021/01/blog-post_8.html

より転載です。

 

看護師を続けられるのは、患者さんからいただけるものがいっぱいあるという事でしょうか。  「ありがとう」の一言であったり、笑顔であったり、ご家族からの感謝の言葉だとか、ですね。  中にはよくしてもらえなかったというような事もありますが。

ホスピスのゴール、旅立ってゆく人なりに、人生をOKして、かかわった奥さん、家族などに、「世話になった、ありがとう 先に行くな」というのが思えたら、それがOKというのが私の中にすごくあります。(以上)

 

ケアのゴールが、「世話になった、ありがとう 先に行くな」が印象的でした。

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疫病と人類

2021年01月06日 | 苦しみは成長のとびら

『疫病と人類――新しい感染症の時代をどう生きるか』 (朝日新書・2020/11/13・山本太郎著)、著者は、感染症対策でアフリカ等に従事した専門化です。今年初めて図書館から借りてきた本です。


内容(「BOOK」データベースより)に次のようにあります。

ウイルスが広がるか、それとも収束するか。流行を決めているのは、私たち自身だ。近年、加速度的に登場する新たな感染症は、グローバル化による人口の増加や生態系への無秩序な進出、地球温暖化による熱帯雨林の破壊と無関係ではない。「ペスト」「スペイン風邪」「麻疹」など、これまで人類は、感染症とどう向き合ってきたか。パンデミックを経験することで世界はどう変わったか―。疫病の歴史的実像から、ポストコロナ時代を希望につなぐヒントを探る。(以上)

 

人類と感染症の歴史は古く、一万数千年前、狩猟採集生活から農耕生活へと移り、野生動物を家畜化したことが引き金となった。天然痘はウシ、麻疹はイヌあるいはウシ、インフルエンザはアヒルが持っていたウイルスが人間社会に適応した。こうした感染症は交易や戦争などが原因で、世界中に広がった。そして感染症の世界的流行によって、世界は変わったことを過去の感染症の事例を引いて論説しています。下記の結論の部分です。

 

 新型コロナウイルス感染症の流行が今後どのような軌跡をたどるのか、現時点で正確に予測することはできない。ただ流行が拡大し、蔓延すれば、あるいは新型コロナウイルス感染症とは異なるが致死率の高い感染症が今後流行すれば、私たちは、私たちが知る世界とは異なる世界の出現を目撃することになるだろう。それがどのような社会かは、もちろんわからない。しかしそれは、一四世紀ヨーロッパのペスト流行時のように、旧秩序に変革を迫るものになるかもしれない。そうした変化は、流行が収束した後も続く。後から振り返れば、世界の秩序の転換点だったということになったとしても不思議はない。

 繰り返しになるが、感染症は社会のあり方がその様相を規定し、流行した感染症は時に社会変革の先駆けとなる。そうした意味で、感染症のパンデミックは極めて社会的なものとなる。その時代、時代を反映したものとして、という意味ではあるが。

 歴史が示す一つの教訓かもしれない。

 

「社会」が感染症を選び取る

これまで私たち研究者は、なぜ、ある感染症が流行するのか、その原因を一生懸命に考えてきた。しかし、どうやらその「考え方」は「逆」ではないかと、最近思い始めている。

流行する病原体を選び、感染症のパンデミックを性格付けるのは、「社会のあり方」ではないかと。

 古くは、中世ヨーロッパの十字軍や民族移動によってもたらされたハンセン病。産業革命が引き起こした衛生環境の悪化が広げた結核。世界大戦という状況下で流行したインフルエンザ、植民地主義と近代医学の導人がもたらしたエイズ……。その意味では、今回の新型コロナウイルス感染症や未だアフリカを中心に流行収束が見られないエボラも例外でない。

 ヒトの行き来により格段に狭くなった世界。とどまるところを知らない熱帯雨林の開発や地球温暖化。それらと相よって、野生動物の生息域が縮小し、ヒトと動物の距離が縮まった。野生動物と共存していたウイルスは調和を乱され、行く場所を求めてヒト社会に入り込んでくる。新興感染症がひんぱんに発生する理由はそこにある。

 加えて、増加した人口、都市への密集、世界の隅々まで発達した交通網が感染拡大の原動力となる。現代社会は、新型コロナウイルスのようなウイルスの出現と拡散の双方にとって「格好」の条件を用意しているのである。それは社会のあり方が変わることによって、さらに変わって行く。

私たち人問社会は、これまでにも変わってきた、そしてこれからも変わっていくだろう。その時にどのようなウイルスが流行するか、それは、社会のあり方が規定する。そしてその時々のウイルスは、常に、私たち人間社会の脆弱な点を突くかのように流行するだろう。

 そうした考え方に立てば、ウイルス感染症にとって「強い」すなわち強固な社会というものの絶対的なかたちというものはないことになる。だとすれば、ウイルスのパンデミックが今後も起こることを前提にしか社会を創っていくことは、一つの重要な選択肢になる。

そして、それはおそらく、多様で、変化に柔軟な社会ということになるのではないか。そうした社会は、監視的で強権的な社会では達成できない。市民のエンパワーメントを通じた民主的手法を通じた社会が求められる所以でもある。(以上)

 

感染症の世界的流行にとって、世界がどうその感染症を受け止め変わって行くか。その視点が重要だということです。

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無価値なものが甦る

2021年01月03日 | 苦しみは成長のとびら

元旦に新聞の販売店を回って、全国紙を買って読むことが、ここ20年の正月の行事になっています。一昨年までは、車で回って回販売店で買っていましたが、昨年からコンビニで買うことにした。元旦、ウオーキングの帰りに、コンビニによると、いつもは置いてない毎日新聞や東京新聞もあり、日経、東京新聞、毎日新聞、千葉日報を落掌しました。産経と読売は配達なので、すべてが揃いました。

 

やはり今年はコロナ後の世界の価値観がどうか変わって行くのかという視点で読みました。でもどの新聞も現状分析で、流行病後に世界は変る程度で、具体的に、思想的な面に踏みこんだ論説はありませんでした。

 

各新聞に目を通して、「日本経済新聞」の二点の記事が目に留まりました。

 

一つは、連載の「私の履歴書」で辻維雄氏が『「運にお任せ」親鸞に学ぶ』という連載が始まったということです。内容は第一回だったため、親鸞聖人に行き着いていませんでしたが、何書くのか興味深いところです。

 

もう一つの話題は、一面に掲載されていた「脱炭素の主役 世界競う」の誌面にあった次のことです。少し転載します。

 

 

生き物の気配がしない氷点下10度の砂地にかすかな金属音が響く。ギギ、ギギ。発電パネルが光を追う。北京から西へ700キロ。中国最大級のダラト太陽光発電所だ。

 価値生む砂漠 完成時には広さ67平方キロメートル。山手線の内側に匹敵し、原発2基分の200万キロワットの発電能力を備える。コストは1キロワット時で4円強と日本の太陽光の3分の1を下回る。立地する内モンゴル自治区オルドス市は半分が砂で覆われ、黄砂の発生源でもある。(以下省力)

 

砂漠という生産性が無いと思われていた地域が太陽光利用という科学的知識によって、価値あるものとして甦っているという記事です。

 

もっと生産性が無いと思われていた砂漠が、生産性がある地域として甦る。何か、煩悩具足の私が、如来の智慧によってもっとも豊かなものとして見出されていくことと重なって興味深い内容でした。この世において、最も価値がないと思われている場所やひとがから最も価値あるものが生まれて行くということを内包していていて興味深い記事でした。

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苦悩する人々にわれわれができること

2020年08月28日 | 苦しみは成長のとびら
先週の『産経新聞』(2020.8.20)「正論」に、「苦悩する人々にわれわれができること」山崎章郎氏が、この度の安楽死殺人について執筆されていました。最後の部分だけ転載します。

 苦しい思いに耳を傾け
 ところで、全ての人は、生まれてから、死ぬまで他者との関係性の中で生きており、その他者との関係性の中で、その時々の自己を認識している。
 例えば、喜怒哀楽という自己認識も、全て、その時の他者との関係性に依拠していることに異論はないだろう。
 とすれば、生きる意味がないとか、早く死にたいと思わざるを得ない状況における自己認識もまた、その状況における、他者との関係性に依拠している、と言っても過言ではないだろう。
 しかし、そのような自己認識にいきなりたどり着くのではなく、その時の他者との関係性の中で、行きつ戻りつ、追い詰められて、そのような思いになるのだと思う。
 もし、そのような状況でも、自己肯定できるような他者が出現すれば、その他者との関係性の中に、その人は、新たな生きる意味や希望を見いだせるのではないだろうか。
 我々の役割は、そのような人々の苦しい思いに耳を傾け、その人が直面している困難に対して、具体的な支援を行い、共にその時を歩みながら、その人が自ら、自分にとっての、真に拠り所となる他者を見いだすことができるように支援することなのではないのか、と私は思うのである。
      (やまざき ふみお)
(以上)
「そのような状況でも、自己肯定できるような他者が出現すれば、その他者との関係性の中に、その人は、新たな生きる意味や希望を見いだせるのではないだろうか。」とあります。東京でのビハーラ活動も、どの様な状況にあっても自己肯定できる考え方、価値観、人間関係を模索し実践しています。
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