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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

人間の成長モデル

2021年10月23日 | 苦しみは成長のとびら

『他人の期待に応えない ありのままで生きるレッスン』 (SB新書・清水研著)からの一部転載です。

 

 

私はがんを体験した人の姿から、人は「死」を見据えながら生きることができること、「死」を見据えることは生を輝かせることにつながることを教えてもらいました。

 どうしたら「成長し続ける」という。“幻想”から離れ、人生後半の「死」という終着点を見据えた豊かな人生にたどり着くのか、まず、がん体験者かたどる心理的プロセスを示します。図1をご覧ください。これは、心的外傷後成長モデルという心理学のモデルで、がんなどの衝撃的な喪失体験をした後、心はどういう道筋をたどるのかを説明しているものです。人には「①もともとその人が持っていた人生観」があるのですが、がん告知などの「②衝撃的な出来事」が起きると、その人生観が崩れ去ってしまいます。

 その直後はつらい考えや感情が巡り、その人は「③喪失と向き合う」という最初の課題に取り組むことになります。つらい感情が徐々にやんでくると、「①新たな人生の意味を考える」という2番目の課題に向き合い、その結果「⑤新たな人生観」が作られるのです。

 ミドルエイジクライシスは、衝撃的な出来事により一気に人生観が崩壊するのではなく、徐々に人生観を手放すという点て異なりますが、それ以外の部分は共通することが多いので、大いに参考になります。

引用文献

『心的外傷後成長ハンドブック 耐え難い体験が人の心にもたらすもの』(医学書院)

(以上)つづく

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私の大往生

2021年06月19日 | 苦しみは成長のとびら

『私の大往生』 (文春新書・2019/8/20・週刊文春編集)


十四人に尋ねて、死への恐怖、印象に残った死に方、人生への思い―人生のインタビューしたものです。

 

『大往生したけれりゃ医療と関わるな』の著者である中村仁一氏のコメントに次なような言葉がありました。

 

 一番簡単なのは、「余命六ヵ月と言われたらエクササイズ」。今あなたががんで余命六ヵ月と言われたら自分は何をしたいのか、を列挙する。その中で、あの人と仲直りしたい、謝りたいということなど色々出てくると思うんですよ。優先順位を付けてそれらをとにかく実行していく。

…他には、「お通夜エクササイズ」というものもある。よくお通夜の席で「こんなことなら、もっとああしておいてやるんだった」と嘆きが出ます。それを今やる。(以上)

 

「お通夜エクササイズ」は、初めて耳にしました。映画監督大林宣彦さんのコメントです。以下転載。

 

がんになって知ったこと

僕は、がんで余命宣告された時から、虫一匹殺さなくなりました。

ふと見ると、左腕に蚊がとまっていたことがありました。その蛟を見た時、何十万、何百万という蚊がこの宇宙にはいて、何十万、何百万人か人間がいる中、俺とお前は今か一期一会だなと思ったんです。僕はがん患者だから血は美味しくかしかもしれないけれど、一所懸命吸って、元気で暮らしてくれって、虫だけではなく、歩いていて、草も踏めなくなりました。葉一枚を千切ることもなくなった。みんな同じ命です。

 体の中のがんにも言っています。ここに住み着いたからには、面倒を見てやる。だけど血を吸い尽くして、筋肉を食い尽くして僕が死ねば、お前も死ぬぞ、少しは我慢を学びなさいって。

 同時に、僕自身がこの宇宙にとってがんだったということに心気付きました。

 思いのままに好きなものを食べ、ジェット機に乗って外国へ行く。僕がジェット機に乗らなければ、地球の温暖化が少しは止まるだろうに。そのぶんだけ地球は長生きできる。

 僕はがんになって初めて、「優しくする」ということを学びました。だから地球にとっていい患者になり、周囲に優しくすることを実践していきたい。(以上)

 

がんになって自分の生命の愛しさを思う。そのいのちへの愛おしさが、すべてのいのちへと拡大していくということがあるようです。

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若きいのちの日記

2021年06月06日 | 苦しみは成長のとびら

大島みち子著『若きいのちの日記』は、1964年だけで 『愛と死をみつめて』が125万部、『若きいのちの日記』は80万部で、2冊合わせて200万部突破の、当時史上空前の大ベストセラーを記録。『愛と死をみつめて』は、ラジオドラマ、テレビドラマ、映画、レコードになり、大ベストセラーになって日本中を感動の渦に巻き込んだ。あまりにも有名は、「健康な日を三日下さい」です。

 

「病院の外に、健康な日を3日ください。
 一週間とは欲ばりませんから。
 ただの3日でよろしいから。
 病院の外に 健康な日がいただきたい」

「一日目、私はとんで故郷(ふるさと)に帰りましょう。
 そして、お爺(じい)ちゃんの肩を たたいてあげたい。
 母と台所に立ちましょう。
 父に熱燗(あつかん)を一本つけて、おいしいサラダを作って、
 楽しい食卓を囲みましょう。
 そのために一日がいただきたい」

「二日目、私はとんで あなたのところへ行きたい。
 あなたと遊びたいなんていいません。
 お部屋の掃除をしてあげて、
 ワイシャツにアイロンをかけてあげて、
 おいしい料理を作ってあげたいの。
 そのかわり お別れの時、
 優しくキスしてね」

「三日目、私は一人ぼっちで、思い出と遊びましょう。
 そして、静かに一日が過ぎたら、
 三日間の健康を ありがとうと、
 笑って永遠の眠りにつくでしょう」

                    『若きいのちの日記』 大島みち子 著  より

 

1942年2月、兵庫県西脇市に生まれ、県立西脇高校二年在学中に発病。卒業までに入退院を繰り返す。1960年の夏、大阪大学附属病院に入院中に河野実と初めて出会う。1962年、同志社大学入学後の夏、再発。大阪大学附属病院に再入院するが、一度も退院することなく、1963年8月7日、長く厳しかった闘病の青春を終え、その若く美しい生命を閉じた

「病院の外に健康な日を三日ください」の詩は、亡くなる四か月前の4月10日に書かれたものです。

 

あらためて著書を読んで、恋人であった河野実は『若きいのちの日記』に「日記を読んで」があった。その中、終わりの方に1963年8月7日亡くなった月の3日のことを次のように記している。

 

 

三日に一応帰京することになった。ちょうどお母さんが炊事室に行っていなかったので、思い切って君に尋ねた。「みこ、これが最後になるかも知れないなば」「うん」と声に出しては言わなかったが、君もしっかり手を握り返した。泣いた。

「まこ元気になれなくてごめんね」と君が言った最後の言葉は今も耳兀で繰り返されてる。

 

 だから僕と君は、お別れの言葉を繰り上げて、八月三日にやってしまったのである。最後まで、僕と君はチャッカリしていたね。だから、君が七日にこっそり逝ってしまったのに対しても、僕個人としては、あまり悲嘆していないのである。

                        一九六三年、八、十六 信州にて(以上)

 

しっかりとお別れができると、大切な人であっても死を受け入れられるのかも知れません。

 

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「いのち」の終りに

2021年06月05日 | 苦しみは成長のとびら

命の終わりに関連です。

 

『日本一短い「母」への手紙 一筆啓上』

  

 

「いのち」の終りに三日下さい

 

母とひなかざり

 

貴方と観覧車に

 

子供達に茶碗蒸しを

 

(以上)

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ママ、死にたいなら死んでもいいよ

2021年03月01日 | 苦しみは成長のとびら

『ママ、死にたいなら死んでもいいよ (娘のひと言から私の新しい人生が始まった) 』(2017/2/27・岸田ひろ実著)、1968年大阪市生まれの著者、知的障害のある長男の出産、夫の突然死を経験した後、2008年に自身も大動脈解離で倒れ、成功率20%以下の手術を乗り越え一命を取り留めるが、後遺症により下半身麻痺、約2年間に及ぶリハビリ生活中、絶望を感じて死を決意したときの、娘さんから言葉だという。

ご本人が娘さんの前で「死にたい」とこぼした言葉に、「死にたいなら死んでもいいよ、ママが歩けなくてもいい。寝たきりでもいい。だってママに代わりはいないんだから。ママは二億パーセント大丈夫。私を信じて、もう少しだけ頑張って生きてみてよ」と言われ、「娘の一言から私の新しい人生が始まった」という。本から転載します。

 

 

ごわごわと騒がしい神戸のカフェ。

正面に座る娘が放った一言に、私は言葉を失いました。

2008年、初夏のことでした。

その日、私は絶望の淵にいました。

急性の大動脈解離という心臓の病気によって胸から下が麻痺し、数ヶ月にわたり入院を続けていたのです。

歩くことはもちろん、当時は寝返りを打つことも、ベッドから起き上がることもできませんでした。

来る日も来る日も、天井を見つめながら涙を流しました。

入院百八十日目にしてようやく外出許可かおり、私は喜びに心を躍らせていたのです。

 

しかし、待っていたのは厳しい現実でした。

自分の足で歩いていた頃は、神戸三宮駅で降り、改札から街へと出るまで一分もかかりませんでした。

でもそこには、車いすで越えられない階段があったのです。

お手洗いに行きたくても、車いすで入れる個室はなかなか見つかりません。

十七歳の娘に車いすを押してもらい、散々迷って辿り着いたお店の中は狭く、席に着くことすらできませんでした。

どれもこれも、歩いていた頃には気にも留めなかったことばかりです。

 

「すみません、ごめんなさい、通らせてください」

 

気がつけば私は一日中、謝ってばかりいました。

やっと入れるレストランを見つけた時、私は疲れ切っていました。

車いすでの外出が、こんなに苦しいとは思わなかったのです。

「なんで私は生きているんだろう。死んだ方がマシだった……」

 

思わず、口にしてしまいました。

終わらない入院生活、つらいリハビリ、楽しめない外出。

世界中の誰からも必要とされていないような気分。

限界だったのだと思います。

すぐに「しまった、なんてことを言ってしまったんだろう」と後悔しました。

私は娘の顔を見ることかできませんでした。

私はてっきり「死かないで」「なんでそんなこと言うの」と娘は泣いて言うだろうと思っていました。

娘は私の一番の理解者です。

病気で倒れる前もしょっちゅう二人でショッピングや映画に出かけていましたし、親子でありながら友達のように仲がよかったのです。

そんな娘から返ってきたのは思いもかけず、肯定の言葉でした。

「死にたいなら、死んでもいいよ」

皆さんの中には、ビックリしてしまう人もいるでしょう。

親に向かってひどい娘だ、と怒る人もいるかもしれん。

 

しかし娘の言葉は、それまで受け取ってきたどんな言葉よりも、私を救いました。

自分の足で歩けず絶望していた私は、再び前に進もうと決めました。

「死んでもいいよ」から、私の新しい人生が始まったのです。(以上)

 

最愛な人が死ぬほど苦しんでいたら、その死を肯定するような気持ちで一緒に歩む。スゴイ言葉だと思います。

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