『ママ、死にたいなら死んでもいいよ (娘のひと言から私の新しい人生が始まった) 』(2017/2/27・岸田ひろ実著)、1968年大阪市生まれの著者、知的障害のある長男の出産、夫の突然死を経験した後、2008年に自身も大動脈解離で倒れ、成功率20%以下の手術を乗り越え一命を取り留めるが、後遺症により下半身麻痺、約2年間に及ぶリハビリ生活中、絶望を感じて死を決意したときの、娘さんから言葉だという。
ご本人が娘さんの前で「死にたい」とこぼした言葉に、「死にたいなら死んでもいいよ、ママが歩けなくてもいい。寝たきりでもいい。だってママに代わりはいないんだから。ママは二億パーセント大丈夫。私を信じて、もう少しだけ頑張って生きてみてよ」と言われ、「娘の一言から私の新しい人生が始まった」という。本から転載します。
ごわごわと騒がしい神戸のカフェ。
正面に座る娘が放った一言に、私は言葉を失いました。
2008年、初夏のことでした。
その日、私は絶望の淵にいました。
急性の大動脈解離という心臓の病気によって胸から下が麻痺し、数ヶ月にわたり入院を続けていたのです。
歩くことはもちろん、当時は寝返りを打つことも、ベッドから起き上がることもできませんでした。
来る日も来る日も、天井を見つめながら涙を流しました。
入院百八十日目にしてようやく外出許可かおり、私は喜びに心を躍らせていたのです。
しかし、待っていたのは厳しい現実でした。
自分の足で歩いていた頃は、神戸三宮駅で降り、改札から街へと出るまで一分もかかりませんでした。
でもそこには、車いすで越えられない階段があったのです。
お手洗いに行きたくても、車いすで入れる個室はなかなか見つかりません。
十七歳の娘に車いすを押してもらい、散々迷って辿り着いたお店の中は狭く、席に着くことすらできませんでした。
どれもこれも、歩いていた頃には気にも留めなかったことばかりです。
「すみません、ごめんなさい、通らせてください」
気がつけば私は一日中、謝ってばかりいました。
やっと入れるレストランを見つけた時、私は疲れ切っていました。
車いすでの外出が、こんなに苦しいとは思わなかったのです。
「なんで私は生きているんだろう。死んだ方がマシだった……」
思わず、口にしてしまいました。
終わらない入院生活、つらいリハビリ、楽しめない外出。
世界中の誰からも必要とされていないような気分。
限界だったのだと思います。
すぐに「しまった、なんてことを言ってしまったんだろう」と後悔しました。
私は娘の顔を見ることかできませんでした。
私はてっきり「死かないで」「なんでそんなこと言うの」と娘は泣いて言うだろうと思っていました。
娘は私の一番の理解者です。
病気で倒れる前もしょっちゅう二人でショッピングや映画に出かけていましたし、親子でありながら友達のように仲がよかったのです。
そんな娘から返ってきたのは思いもかけず、肯定の言葉でした。
「死にたいなら、死んでもいいよ」
皆さんの中には、ビックリしてしまう人もいるでしょう。
親に向かってひどい娘だ、と怒る人もいるかもしれん。
しかし娘の言葉は、それまで受け取ってきたどんな言葉よりも、私を救いました。
自分の足で歩けず絶望していた私は、再び前に進もうと決めました。
「死んでもいいよ」から、私の新しい人生が始まったのです。(以上)
最愛な人が死ぬほど苦しんでいたら、その死を肯定するような気持ちで一緒に歩む。スゴイ言葉だと思います。