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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

世界禁煙デー

2009年05月31日 | 私のこと
この二日間は両日とも雨、昨日などは、睡眠充分で二日間雨はないだろうと張り切って外へ出ると雨、そのままパソコンに向かって残部整理ができました。ウオーキング出ようと思ったのが4時40分、残務整理がはかどりました。

今日は、NHK深夜便の心の時代、五木寛之さん「わが人生に歌がかり」を聞きながらスタート。今日の歌がかりは1983年ごろ、京都の龍谷大学へ聴講へ行っていたころな話なので興味深く聞きました。深夜便が終わるとスイッチを切って、そして5時になる頃に、スイッチオン、いやその前だったかも知れない。

ラジオから「本日は世界禁煙デー」と流れてきました。
アナウンサーの方が、アンケートによって禁煙した理由を聞いたとこと、他人に迷惑がかかるからなどと言った他人のためよりも、自分の健康とか金がかかるとかの自分のために禁煙する人が多かったなどと、世相を伝えていました。

私はそのコメントを聞きながら「念仏によって禁煙した人など自分以外にいないかも知れらい」とふっと思ったことです。

念仏のよって禁煙した?
それはこういうことです。産経新聞のコラム(西原執筆1999年掲載)から引きます。

禁煙

 私は念仏によってタバコを止めたという経験があります。それは学生の頃、ある本を読んでいた時に起こりました。

 「隠れ念仏」という史実をご存じでしょうか。鹿児島を中心とする旧薩摩藩では、慶長二年(1598)以来、明治九年(1876)に至るまで、浄土真宗の念仏を禁止するという宗教統制が行われたのです。禁を犯す者は、斬首、はりつけ・火あぶり等の極刑に処せられ、あるいは逆さずりや、石責めなどの過酷な拷問にかけられたと伝えられています。

 天保年間の弾圧だけでも藩内十四万人が検挙され、難を逃れ藩外に逃れた者は一夜でけでも2804人に及ぶと史禄にあります。

 そうした暗黒の弾圧を繰り返される中、真宗門徒は、洞窟に潜み、あるいは様々なからくりを用い、地下組織の講をつくり念仏を相続しました。

 現在でも鹿児島地方には「隠れ念仏洞」の跡が点在し、お年寄りの口からは、実際の体験者から聞いた逸話を聞くことが出来ます。

 さて、ある本とはその隠れ念仏の史実をまとめた書物でした。その本には、拷問による死の間際、許され念仏を称えて死んで逝った人。海に舟を出し、荒波の中で念仏した逸話。また禁制の中、決死の覚悟で布教伝道した僧の史実などが綴られていました。念仏を申すことが許されない状況の中で念仏を称え続けた人たちの記録です。

その史実に接していたら、自由に念仏を称えることの出来る有り難さがこみ上げてきました。浄土真宗の念仏は、念仏として私に届けられている阿弥陀如来の慈しみに触れる営みです。その念仏を称えることを禁じられたのです。念仏を申せずに必死に耐え忍んだ人たちの苦渋は想像を絶します。

 その途端ふと、タバコの煙を出すことを我慢する事のたわいのなさ思われました。それから1,2ヶ月は、タバコのことが思いにかかると、念仏を申すことの喜びを噛みしめて過ごしました。そしたらいつの間には禁煙という思いのないまま、タバコから解放されていたのです。(以上)

禁煙といえば2年前、聞いたみやざきホスピタルの宮在幸枝さんの禁煙方法を思い出されました。
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新緑の風のように

2009年05月01日 | 私のこと
今日の深夜便〔こころの時代〕は「がん難民を救え」-がん難民コーディネーターである藤野邦夫氏が、医師と患者の意思疎通の悪さを語っていた。医師は患者に対してパソコン画面を見ながらがんを告げる。その話を聞きながら「これは他人ごとではない」と思った。コンビニの店員とお客の会話のように心の交流のない機械的な要件だけを交わすという人間関係に違和感を持たなくなっている。その方が煩わしくなく快適なのだ。自分の思いの中だけに閉じこもって生きる。だから都市部では人が孤独なのだろう。

自分は自分、人は人。それでも自分と相手をつつむ人間観がると、他人であっても会話がなくても親しく感じるということがある。同じ郷里、同じ浄土真宗の門徒、同じ時代に生きる仲間。

コンビニで店員を対した時、「この人をかけがえなのない大切な人として育てた親がいる」と思うだけで、何かその方に人間らしさが感じられてきます。心を自分だけの思いで閉ざさず、初夏の風を受けてリフレッシュして生きたい。自分へ。

4.5日前、写真を変えました。以前のはぼんやりしたイメージ写真、これは今年、本願寺である対談をしたときに、カマラマンが取ってくれたもの。校正のための対談原稿が届き、その記事の中にあった写真です。

自分の葬式に使いたいからと、カマラマンから譲っていただいたものです。ネットで「西原祐治」と入れ、写真を検索すると、古い写真やイメージと違った写真が検索されて表示されるので、ベストショットを掲載しました。
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宗教生活

2009年04月07日 | 私のこと
今日もまた、ハツカネズミのような一日だった。午前3時に目が覚めて、考え事をしていたら「宗教政策」という言葉に思い至った。江戸時代、明治、戦後と時の権力者はその時代その時代の宗教政策を講じている。宗教の歴史を見るときに、世の中の宗教事情の歴史を追う場合と、宗教政策によって宗教界がおどらされているその宗教政策を視点にして宗教史を見ていく場合とがある。

そんな思いがふとよぎったので、おそらく明日の朝には「宗教政策」というきーワールドは覚えたいないはずと起き上がりパソコンに向かって国会図書館論文検索。検索の結果「宗教政策」で入力して読みたいと思う論文を6本ありそのまま複写請求。他にも知らべていると早4時10分、この時間はラジオ深夜便「心の時代?」がやっていると思い布団にもぐるとスヤスヤ。目が覚めると6時15分前、もう日が上がっているので、本日の早朝のウオーキングは中止。

それから起きて、朝の勤めや朝食、パソコンに向かって地域のミニコミ誌へのコラムを一本書き送信。朝の10時まではまあまあゆっくりしていた。それから東京へ車で行って用事を済ませ14時半帰院した。それからがハツカネズミ状態でした。遅い昼食を済ませると昨日用意したある5月の誕生花CDを持って写真店へ。60枚くらいあるので20分かかるという。「ハイわかりました」と、その間、近くの電気店へ行って切れている蛍光灯を購入。写真を受け取ると、散髪店へ、マッサージを断り早く済ませ、帰りがけに今日壊れてしまった眼鏡を持ってメガネ店へ、その帰りにビハーラ関係で明日中に出す予定の大きな封筒を事務用品店で購入。時間があればガソリンを入れたかったが断念して帰院。蛍光灯を設備すると大きさが合わない。違う蛍光灯に転用できたので、その蛍光灯の現物を持って、少し遠方の7時からの通夜に行く。途中、案の定、電気店があったので蛍光灯を都合6本購入。そしてお通夜、今帰ってきて21時、そして一杯飲みながらこのブログです。

こまごまと書いたのは、お通夜から帰りの車上で念仏しながらふと思ったことがあったからです。「今日はよく称名念仏を称えた」と心に浮かんできたとき、浄土真宗は本当に稀有最勝の法だと思った。こんなパチンコ玉のような私の生活が、そのまま念仏を称えるという宗教生活になっているということの有難さです。わたしが仏さまの功徳に近づいた宗教生活を実践するのではなく、如来が南無阿弥陀仏となって私の日常生活に合わせて念仏と成って下さっている。このパチンコ玉のような私生活が、そのまま阿弥陀如来とのご一緒に宗教生活であったということです。これはただ事ではありません。

あすは花まつり、お釈迦の降誕会、1つ書きたいことがある。
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時期が熟する

2009年04月02日 | 私のこと
 法務から帰ってくると、ある出版社から小冊子のゲラが届いていた。32項の冊子、2冊である。昨年、月刊在家仏教に掲載した原稿「川上清吉師からの手紙」をベースに、私の父のことを取り混ぜてつづった冊子です。

 このゲラが届く前、冊子の体裁について出版社の方と打ち合わせた折、もう故人とは言え私信の手紙だが川上家ご遺族の了解を取っておいてくださいとのことでした。

 早速、島根県大田市の友人に電話してご遺族関係者の所在を尋ねると、なんとその友人のおじさんが小さい頃、川上家へ養子に入っているとのこと。過般、法事であったとのことでした。築地本願寺で何年か一緒に仕事をしたが、たとえば昔、その友人から自分は川上清吉師と親戚だと聞いても、私には興味がなく聞き流していたに違いない。時期が熟するということが確かにある。その友人の教えてくれた住所当てに手紙を書くと、承諾のご返信とともになんと川上清吉師の色紙が届いたのです。

 いまこうして文章をつづりながら、時期が熟するということが確かにある。いまがその時である。と念仏を味わっている。
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ピカピカの一年生が執行猶予

2009年04月01日 | 私のこと
 新しい年度が始まった。今年からの予定であった京都・龍谷大学大学院の15回の講義は、来年からとなった。私の担当「都市開教論」が2年次の学科で、今年スタートする大学院真宗実践研究科は、2年生はいないので執行猶予がついたわけです。

 今日は京都・本願寺のご動座法要に参拝の予定でしたが、雑務に追われて中止です。昨日は午後2から5時までビハーラの電話相談で、6時から8時まで勤式の学習会講師、その足で京都へ行く予定でした。

 中止してよかったという思いもあります。その分、雑務をこなすことができたからです。今日の朝5時から雨の為中止になったウオーキングの時間を仕事に振り向け9時半まで事務、その後、特養へ行って法話(途中、県立図書館にて図書の変返却と借受)、また帰院して雑務をこなしています。そして夜はお通夜、その後、大阪からお見えになっているご講師と会食の運びです。

 事務はこのブログで増えた分もありますが、帰敬式の法名を考えています。今年は年間30人くらい築地本願寺で受式してもらおうとの思惑があります。申し込みがあると3つくらい法名案を作り、その中から選んでもらいます。そしてその法名を申請します。今日の朝から6名の方の法名案の出拠と意味を考え文章を作って発送したので時間をとったわけです。

 ここ5年は、平均13名の方が別院の報恩講で帰敬式を受けられました。しかし考えてみると10年で130名、これでは全く私の寺院モデル構想の中にある、門信徒多数が帰敬式済みという目標値をクリアーできません。

 今年からほぼ毎月、別院で帰敬式が可能となったので、まずは今年度、30人の目標と立てたわけです。これを書いていると今も帰敬式の申し込みがありました。
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