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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

軽自動車

2009年03月18日 | 私のこと
 毎日、法務の出勤はホンダの軽自動車です。3台目になるのでもう10年近く乗っていることになる。軽に乗る第一の理由は、縦横無尽、細い道も裏道も入っていけるので、わたしのこせこせした性格に合っていること。休日はご法事が5.6件あるが道の混雑は計算に入れてありません。裏道を利用して時間ぎりぎりで走るので軽自動車は好都合です。二番目の理由は、柏の住宅街にはコインパーキングというしゃれたものはなく、道も細く駐車場のない家庭がほとんどなので軽が好都合です。駐車場の心配といういらぬ迷惑をかけなくて済みます。三番目が、あわよくば軽自動車が似合う人になりたい。これは難しいことです。人は必ずその人自身でなく乗っている車や身なりで判断します。ベンツに乗っても軽自動車に乗っても同じ風格(?)を漂わせる。これは実に魅力的です。

 10年前、築地本願寺の輪番(代表)であった蓮正典(はちすしょうてん)師の逸話がある。師は築地の後、本願寺派の総長になった方です。わたしも師から直接聞いた話ですが、日比谷の帝国ホテルで寺院後継住職の結婚があった。師は背広姿で自転車にまたがり、ホテルの正面玄関に乗り付けた。そしてスタンドを立てて鍵を閉めると、そのカギをホテルのドアマンに「たのむよ」とベンツのキーを渡すように手渡した。帝国ホテルも正面玄関へ自転車で乗り付けた来賓は初めてだったらしい。そんなことが2.3度あったと師から聞きました。

 本当に風格のある人は、自転車でも軽自動車でも媚を売らず、高級車に乗っても威張らず立振舞うことができるのでしょう。わたしなどはどうも社会的な評価に該当すると、こころが揺れ動く傾向にあります。軽自動車が似合う人格。これはなかなか奥が深かそうです。これは高級車を直木賞受賞、国会議員、軽自動車を労務者と変えても同じことです。敵は自身の中にある慢心です。この慢心、慢心があることも知らずに、慢心そのものに幸せを感じている人もいます。こころの中の見えない慢心に気付く人もいます。これは得難い徳の高い人です。

 わたしなど庶民は、慢心は快いので気付くことなく過ごしています。しかしその慢心に気付かされる場合があります。明日に続く。
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親鸞聖人の爪

2009年03月02日 | 私のこと
 土曜日、当寺のスタッフ数人と会話をしている時のことでした。ちょうど何日か前に出版された『わが家の仏教・仏事 浄土真宗』(拙著)の口絵の親鸞聖人熊皮御影を見ていたNさんが「ホントだ。親鸞聖人の爪が長い」と言う。なんでも2月21日に出席した仏壮研修会で、講師の鍋島龍大教授が「当時の身分の高い人は爪が長かった」と語っていたという。平安貴族の女性の髪の長さは身分に相応していたことは知っていたが爪の長さも?

 そういえば善光寺の境内のお堂に聖人の爪で彫られたという、石仏の「爪彫阿弥陀如来像」があり、また石岡市高浜を貫く県道の近く親鸞聖人ゆかりの爪書き阿弥陀堂が建っています。これは親鸞が常陸国に滞在されていた時、鹿島神宮に参拝しようと高浜の渡し場を訪れたおり、腫れ物に苦しむ男がおて聖人が静かに念仏を称える腫れ物は消え、男はお礼に小麦の焼餅を振る舞った。やがて親鸞が鹿島に渡る日、「未来の苦しみからも逃れたい」と懇願した男に「帰って庭石を見てみるがいい」と言い残し高浜を去った。帰ると庭石に爪で彫った阿弥陀如来が描かれていたという逸話です。
 しかし歴史書で見ると、当時の精神世界は陰陽道の支配下になり手の爪は丑の日に、足の爪は寅の日に切るとあります。だから爪はある程度は切っていたに違いない。

 本堂の聖人のご影の爪もそう長くないし、鏡のご影の爪も長そうにない。

爪といえば経典には(『往生要集』)「その爪光潔(つめこうけつ)なること、華赤銅(けしゃくどう)のごとし」とあり、力強い爪を、華赤銅(けしゃくどう)で示されています。これは、手編に爪と書いて抓む(つまむ)となるように、爪に力を入れて凡夫のわたしをつまみ取る。赤動色は硬さを表しつまみ取る力強さを示してたものです。

聖人の爪の長さは初耳でした。真偽の程は。
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