朝刊に折り込み広告が10点ほど入っていた。電気店の広告チラシで、パソコンを見ていると、「モバイルパソコン」とある。モバイルという言葉はよく聞くが、いつも知ったぶりをしていた。
ネット辞書で引くとー移動性・携帯性・機動性などがあることを意味する表現。小型・軽量化、高性能化された情報通信機器やコンピューターなどの情報端末を形容する言葉として使われるーとある。
なんだモバイルって念仏のことかと思った。またそう思った自分が嬉しくもあった。
早朝(暗闇)1時間のウオーキングが心地よかった。家路について思わず「ありがとうございました」と身体にお礼を言った。そして命終わる時も、心に余裕があったら「朽ち果てていく身体にありがとうございました」とお礼を言って終わっていくのだろうと思った。
何がありがたいのかといえば、今日は少し寒さが緩んでいたせいかウオーキングの間、この身体と阿弥陀さまとのシンフオニーを聴くような思いが巡っていた。大方、毎日同じことですが。
すべては披露できない。どうなシンフオニーが聴こえていたか2.3点言葉にすれば、1つは、昨日の「ほめる達人」の「ほめる」ということです。参拝者の優劣や出座回数で点数を作ることはよくない。昨日の「ほめる覆面調査」のほめるは、けなすと同次元のほめることです。「そうあらねば駄目」という否定を内に含んだ「ほめる」です。
仏教で語る「ほめる」は、その次元ではない。朝、聴こえていた仏さまのシンフオニーは、誕生日を祝うことは良いだろう。それと初法座(初めて西方寺の法話会へ出席)の方へ、今まで『脱常識のすすめ』(拙著)に「○月○日初法座記念」とスタンプを押し、私が「なまんだぶ 西方寺住職 印」と揮ごうした本をプレゼントしていた。あれを休憩時間に世話人から皆の前で伝達式をする。「ようこそ、ようこそお念仏の場に…」という思いの中で。
一人の方が他力念仏の薫る場に出席されたことを祝う。それは初めて出席されて人だけの問題ではなく、同様に、私の上にもその勝縁が整っていることを喜ぶことでもある。
ご門主の組巡教へご同伴させていただいた折、よく「お寺へお参りの人が少ないが、どうしたらよいか」という質問があった。そんな時、『仏説無量寿経』の言葉
「如来の興世に値ひがたく、見たてまつること難し。諸仏の経道、得がたく聞きがたし。菩薩の勝法・諸波羅蜜、聞くことを得ることまた難し。善知識に遇ひ、法を聞き、よく行ずること、これまた難しとす。もしこの経を聞きて信楽受持することは、難のなかの難、これに過ぎたる難はなけん。」
を引いて、「念仏の法座に一人の人がご縁を持った、それはただ事でないことが興っているということです。その驚きと感動をもって、お寺のお役にある方々が、ひとりの人をお迎えすることに尽きます」(意趣)とお伝えしたことがあります。
住職を始め世話人の人は、いつもお寺に来ているので、念仏の座に就くことが当たり前になってしまっているが、私の上にいまとんでもないことが興っているのですよと大経は示している。
そうだ皆の前で、その喜びを共にする。それが初法座の方への記念品の伝達式だ。そんな思いがよぎっていました。
あるいは(シンフオニーの話)、いま校正している「如来の三十二相」の本は、「仏さまの三十二相―智慧と慈悲のシンフオニー」にするか、いや待てよ「―慈と悲のシンフオニー」がいいか?出版社の人と相談してみよう。
また歩いているうちに、今度十六日の築地本願寺(慈光院)の成人式で法話をするが、あの事を話すか、このことを話すか、と阿弥陀さまとコラボレーション(共同制作)の時間、それがウオーキングの一時間でした。
ネット辞書で引くとー移動性・携帯性・機動性などがあることを意味する表現。小型・軽量化、高性能化された情報通信機器やコンピューターなどの情報端末を形容する言葉として使われるーとある。
なんだモバイルって念仏のことかと思った。またそう思った自分が嬉しくもあった。
早朝(暗闇)1時間のウオーキングが心地よかった。家路について思わず「ありがとうございました」と身体にお礼を言った。そして命終わる時も、心に余裕があったら「朽ち果てていく身体にありがとうございました」とお礼を言って終わっていくのだろうと思った。
何がありがたいのかといえば、今日は少し寒さが緩んでいたせいかウオーキングの間、この身体と阿弥陀さまとのシンフオニーを聴くような思いが巡っていた。大方、毎日同じことですが。
すべては披露できない。どうなシンフオニーが聴こえていたか2.3点言葉にすれば、1つは、昨日の「ほめる達人」の「ほめる」ということです。参拝者の優劣や出座回数で点数を作ることはよくない。昨日の「ほめる覆面調査」のほめるは、けなすと同次元のほめることです。「そうあらねば駄目」という否定を内に含んだ「ほめる」です。
仏教で語る「ほめる」は、その次元ではない。朝、聴こえていた仏さまのシンフオニーは、誕生日を祝うことは良いだろう。それと初法座(初めて西方寺の法話会へ出席)の方へ、今まで『脱常識のすすめ』(拙著)に「○月○日初法座記念」とスタンプを押し、私が「なまんだぶ 西方寺住職 印」と揮ごうした本をプレゼントしていた。あれを休憩時間に世話人から皆の前で伝達式をする。「ようこそ、ようこそお念仏の場に…」という思いの中で。
一人の方が他力念仏の薫る場に出席されたことを祝う。それは初めて出席されて人だけの問題ではなく、同様に、私の上にもその勝縁が整っていることを喜ぶことでもある。
ご門主の組巡教へご同伴させていただいた折、よく「お寺へお参りの人が少ないが、どうしたらよいか」という質問があった。そんな時、『仏説無量寿経』の言葉
「如来の興世に値ひがたく、見たてまつること難し。諸仏の経道、得がたく聞きがたし。菩薩の勝法・諸波羅蜜、聞くことを得ることまた難し。善知識に遇ひ、法を聞き、よく行ずること、これまた難しとす。もしこの経を聞きて信楽受持することは、難のなかの難、これに過ぎたる難はなけん。」
を引いて、「念仏の法座に一人の人がご縁を持った、それはただ事でないことが興っているということです。その驚きと感動をもって、お寺のお役にある方々が、ひとりの人をお迎えすることに尽きます」(意趣)とお伝えしたことがあります。
住職を始め世話人の人は、いつもお寺に来ているので、念仏の座に就くことが当たり前になってしまっているが、私の上にいまとんでもないことが興っているのですよと大経は示している。
そうだ皆の前で、その喜びを共にする。それが初法座の方への記念品の伝達式だ。そんな思いがよぎっていました。
あるいは(シンフオニーの話)、いま校正している「如来の三十二相」の本は、「仏さまの三十二相―智慧と慈悲のシンフオニー」にするか、いや待てよ「―慈と悲のシンフオニー」がいいか?出版社の人と相談してみよう。
また歩いているうちに、今度十六日の築地本願寺(慈光院)の成人式で法話をするが、あの事を話すか、このことを話すか、と阿弥陀さまとコラボレーション(共同制作)の時間、それがウオーキングの一時間でした。