早朝5時代(23.5.15)のラジオ放送で「今日は何の日…1923(大正12)年神戸初の百貨店として白木屋神戸出張所が開店。日本の百貨店で初めて土足で入店できるようにする」と紹介していました。私は「へー、大正12年でデパートが土足か…」という思いとともに、それから9年後に建設着工される築地本願寺が、当時としては考えられなかった本堂へ土足で上がる様式にされた、時の宗主本願寺第22代大谷光瑞師(1876~1948)師のとらわれのない発想の自由さに思いが至った。
築地本願寺派、伊東忠太博士の設計による古代インド様式で昭和6(1931)年に起工、3年後の昭和9(1934)年に落成です。古代インド様式を基調にした建物で、内部は日本古来の桃山様式、それらが非常に調和した形で折衷しています。また、本堂は土足で入れるように絨毯敷きとし、椅子席になっています。
これは東京の築地という立地を考慮し、外国の方々にも開かれた寺院とするべく、国際性を考えて設計したからだとあります。当時、お寺の本堂を土足式にする発想は、光瑞猊下ならではのものです。
1954年生まれの私と大谷探検隊を派遣したことでも知られる大谷光瑞師とは、直接の接点はありません。しかし光瑞猊下とつながりを感じる思い出があります。
その次のご門主である本願寺第23代 勝如上人(大谷光照前門主)が、ご門主退任後の昭和57年より毎月宗祖の命日を中心に数日間、首都圏開教を目的として東京にご駐在されることとなりました。当時、別院に勤務していた私は前門主の侍僧(お傍づきの僧)を拝命され、毎月数日間、前門主さまと行動を共にしました。
そんなある日、「今日はご馳走します」と前門主様がいわれ、総勢で5名で水道橋の学生街にある中華料理店と言ってもラーメンやと言った方が似合うお店に行きました。
その店の店主は、大谷光瑞猊下が神戸の六甲に二楽荘という別荘兼中学を設けていたとき、そこで料理人として腕をふるっていた中国人の方でした。どうも前門主に“東京に来たらお寄り頂きたい”とお声かけがあり、その日の会食となったのです。店は8畳くらいの広さで、一角をパーテーションで仕切り、フカヒレから本格的中国料理を堪能しました。
今考えると、その後、店にせっせと通って、光瑞猊下のお人柄をお聞きしておけばよかったと思います。“この味を召し上がったか”と、食べ物の味という一点でも、光瑞猊下とつながったという良き思い出です。
築地本願寺派、伊東忠太博士の設計による古代インド様式で昭和6(1931)年に起工、3年後の昭和9(1934)年に落成です。古代インド様式を基調にした建物で、内部は日本古来の桃山様式、それらが非常に調和した形で折衷しています。また、本堂は土足で入れるように絨毯敷きとし、椅子席になっています。
これは東京の築地という立地を考慮し、外国の方々にも開かれた寺院とするべく、国際性を考えて設計したからだとあります。当時、お寺の本堂を土足式にする発想は、光瑞猊下ならではのものです。
1954年生まれの私と大谷探検隊を派遣したことでも知られる大谷光瑞師とは、直接の接点はありません。しかし光瑞猊下とつながりを感じる思い出があります。
その次のご門主である本願寺第23代 勝如上人(大谷光照前門主)が、ご門主退任後の昭和57年より毎月宗祖の命日を中心に数日間、首都圏開教を目的として東京にご駐在されることとなりました。当時、別院に勤務していた私は前門主の侍僧(お傍づきの僧)を拝命され、毎月数日間、前門主さまと行動を共にしました。
そんなある日、「今日はご馳走します」と前門主様がいわれ、総勢で5名で水道橋の学生街にある中華料理店と言ってもラーメンやと言った方が似合うお店に行きました。
その店の店主は、大谷光瑞猊下が神戸の六甲に二楽荘という別荘兼中学を設けていたとき、そこで料理人として腕をふるっていた中国人の方でした。どうも前門主に“東京に来たらお寄り頂きたい”とお声かけがあり、その日の会食となったのです。店は8畳くらいの広さで、一角をパーテーションで仕切り、フカヒレから本格的中国料理を堪能しました。
今考えると、その後、店にせっせと通って、光瑞猊下のお人柄をお聞きしておけばよかったと思います。“この味を召し上がったか”と、食べ物の味という一点でも、光瑞猊下とつながったという良き思い出です。