「清水ふるさと塾」主催のウォーキングが計画され、参加者を公募するので、その下見を、3月29日に実施するそうだ。ゴム長隊長が、下見の下見をしたいと言いだし、二人で、「下見の下見会」を日曜日の早朝、実施した。(笑)小雨結構なので集合時刻6時に出掛ける。
下見したいのは、次郎長の葬儀時に歩いたコースなのだが、末廣跡(ドリプラ隣のユニクロ付近にある次郎長宅跡石碑)から梅蔭寺までの道のりを、当時の街並みを想像しながら散策する。
大勢集まるのは良い事なんだろうけれど、30人以上は警察の許可が必要とか、ウォーキング保険も掛けたほうがいいとか、それなりに、いろいろな事が係わるようで運営する裏方さんが大変だ。
次郎長宅跡石碑から西に進み(エスパルス通り)港橋を渡ると、現在は真っ直ぐに抜けている道も、当時は、「成就院」に行き当っていた。
そのため、志みず道を右折する。(写真手前を右折)
次郎長の墓は、梅蔭寺にあり、葬儀の列の終着は梅蔭寺なんだけど、当時は今と違って旧久能街道から入る。幸い現在もその道は残っている。(細かい道順の説明は、省略。本番終了後、清水ふるさと塾の塾長がすると思います)
そこから美濃輪稲荷神社の石の欄干を見に行く。
境内入口付近の欄干には、当時の船会社の名前や、郷氏の名前が連なっている。
軟石のため文字が読み難くなっている。壊れないうちに、記録を残しておきたい。
出口の欄干の下の方に小さく、三人連名で「山本長五郎」とひっそりと刻まれている。
「當目村 久保山 岩吉」 次郎長の子分 当目の岩吉。
次郎長の葬儀の際には、岩吉が葬儀委員長の役目をつとめたのであった。
中略
次郎長の墓の台石は、当目山から産出された当目石で、岩吉が清水まで運んだものである。
人間 清水次郎長より
最後に、壮士の墓に行ってみる。たまに見ると新鮮な発見があったりする。
墓に隣接した建物に次郎長の写真などが貼ってある。
早朝なので、窓越しに中を覗いて見る。
荒神山の喧嘩手打式の写真があり、次郎長の右隣に当目の岩吉が写っている。
中に入ってじっくり写真を見たい気がしてきた。
下見の時は、開けて貰えるのでしょうか。(笑)
追記
追記2 両替町、呉服町がありました。
下見したいのは、次郎長の葬儀時に歩いたコースなのだが、末廣跡(ドリプラ隣のユニクロ付近にある次郎長宅跡石碑)から梅蔭寺までの道のりを、当時の街並みを想像しながら散策する。
大勢集まるのは良い事なんだろうけれど、30人以上は警察の許可が必要とか、ウォーキング保険も掛けたほうがいいとか、それなりに、いろいろな事が係わるようで運営する裏方さんが大変だ。
次郎長宅跡石碑から西に進み(エスパルス通り)港橋を渡ると、現在は真っ直ぐに抜けている道も、当時は、「成就院」に行き当っていた。
そのため、志みず道を右折する。(写真手前を右折)
次郎長の墓は、梅蔭寺にあり、葬儀の列の終着は梅蔭寺なんだけど、当時は今と違って旧久能街道から入る。幸い現在もその道は残っている。(細かい道順の説明は、省略。本番終了後、清水ふるさと塾の塾長がすると思います)
そこから美濃輪稲荷神社の石の欄干を見に行く。
境内入口付近の欄干には、当時の船会社の名前や、郷氏の名前が連なっている。
軟石のため文字が読み難くなっている。壊れないうちに、記録を残しておきたい。
出口の欄干の下の方に小さく、三人連名で「山本長五郎」とひっそりと刻まれている。
「當目村 久保山 岩吉」 次郎長の子分 当目の岩吉。
次郎長の葬儀の際には、岩吉が葬儀委員長の役目をつとめたのであった。
中略
次郎長の墓の台石は、当目山から産出された当目石で、岩吉が清水まで運んだものである。
人間 清水次郎長より
最後に、壮士の墓に行ってみる。たまに見ると新鮮な発見があったりする。
墓に隣接した建物に次郎長の写真などが貼ってある。
早朝なので、窓越しに中を覗いて見る。
荒神山の喧嘩手打式の写真があり、次郎長の右隣に当目の岩吉が写っている。
中に入ってじっくり写真を見たい気がしてきた。
下見の時は、開けて貰えるのでしょうか。(笑)
追記
追記2 両替町、呉服町がありました。
同町の名士と言えば、ポーラ化粧品の故鈴木常司氏ですが、もっと古い時代でしょうから・・・
しばらく留守にしていましたので、返事が遅くなりました。御免なさい。
中途半端に石碑を出してしまいましたので、追加で全景の写真をアップしました。「川上」さんの柱がは全部で5本建立されていました。当時のお金持ちでしょうか?
東鷹匠町は江戸からの旧幕臣が住みついた町なので、その一人かとも思ったのですが、名前が見当たりませんでした。
もっとも、旧幕臣は気位は高くとも、多くは扶持をなくして、実態は貧乏暮らしだったでしょうから、寄付する余裕などなかったでしょうが・・・
旧幕臣の土地の多くは手放されて、金持ちの手に渡ったようですから、そのなかの一人だったのでしょうが、どんな人物だったのか分からないのが少々残念です。
朽ちかけた石碑が多いので、今から記録に残したいところです。(清水ふるさと塾)