最近 日本語の祖先は2200年前大挙して朝鮮人が日本へ渡り、それが日本語の成立へ大きく影響したという論述を見たがあり得ない話だ。この手の話が絶えないので玄界灘を簡単に渡れるかを歴史的な事実を参考に考察する。
結論を最初に挙げるが玄界灘を日本から渡るのは容易だが半島から渡るのは難しい。しかし日本に協力者がいる場合には半島から玄界灘を渡るのは可能になる。
先ず日本から半島へ進出するのに水際で撃退されたという事実は存在しないことから日本側から玄界灘を渡るのは容易である。好大王の碑にも度々倭が半島に攻め込んできたことが記されている。百済が滅んだときにも日本は4万人の兵を百済再興のために派遣している。倭冦というのが15世紀に沿岸を荒し回った時期もあった。倭冦も容易に玄界灘を渡っている。秀吉の派兵時も上陸出来なかったという話はない。あとは明治になって日清、日露のときにも日本は自由に朝鮮半島に進出している。逆に半島から日本に上陸した例は元寇時にあるが水際でモンゴル軍は撃退されている。刀伊が対馬を攻撃した例はあるが占領までにはいたらなかった。朝鮮半島から大勢の人が渡った例としては白村江の敗戦時に日本軍が敗残百済人を伴って帰った例がある。秀吉の朝鮮出兵時に10万人以上が渡り、陶工などを連れて帰ったことが知られている。その数は多くて数百人であろう。また近代になって朝鮮が日本の一部になったために朝鮮半島から自由に日本へ渡れるようになった。以上のことなどを考慮すると上で述べたような結論になる。つまり日本人は容易に玄界灘を渡って半島に進出できるが半島から日本へ玄界灘を渡る場合は日本人と敵対する形では困難であるが日本側に協力者がいる場合は可能になる。
以上の原則に照らし合わせると江上波夫氏の騎馬民族征服説も嘘であろう。日本人が協力しない限り玄界灘は渡れない。馬をつれた大量の騎馬軍が日本人と敵対した形では渡海は不可能だ。征服などあり得ない。冒頭に挙げた2200年前に大勢の朝鮮人が渡ったというのも眉唾である。日本語に影響を与えるほどというのはあり得ない。記紀、万葉を帰化人が編集したというのもよく聞くが嘘である。記紀、万葉では漢字は訓読みされている。訓読みは日本独自の使い方で帰化人が編集したという線は消える。
縄文人が土着の日本人で稲作文化をもった弥生人が大量に流入したことがあると言われたことがあったが発掘が進んで数千年前から日本に稲作があったことがわかった。また縄文人と弥生人の骨格が違うことから人種が違うという話も食べ物が変われば同じ人種でも骨格が変わることがわかり弥生人も土着日本人という考えが強まった。長浜浩明氏は「日本人ルーツの謎を解く」という著書で「渡来人は来なかった」という主張を展開している。一読を勧める
昔は帰化人と言っていたが最近は渡来人という例が多い。帰化人というと日本人に頭を下げた或は帰順したという意味に取れる点から単に渡ってきたという意味の渡来人を意図的に使いたい人が多いのだろう。冒頭に挙げた原則のように玄界灘は半島からは簡単には渡れない。昔から日本の方が人口密度は高かったからぶらりと渡ってすぐに生活出来るというものではない。日本人の承認或は協力があってはじめてまとまった数の半島人が渡れる。そして土地をわけてもらえる。渡来人というのは風来坊のような印象を与えるが日本に移住するには日本人の協力、了解があって初めて可能であることを考えれば帰化人と言う言葉が適当ではないか。流れ者のような渡来人には玄界灘は厳しいが帰化する意思を表明した帰化人には玄界灘は渡海可能になる。