塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

マイスターという単語から

2021-11-03 22:40:17 | 日記
 僕はドイツは現在でも「徒弟制度」で生きていると思います。

 親方つまりマイスターが確固たる主として存在し、弟子たちが親方と共に暮らし技術を磨いていく。

 ブンデスリーガ優勝クラブ、既にバイエルン・ミュンヘンの所有物のようなマイスター・シャーレを、日本語で直訳すれば「親方の皿」になりますが、それだけマイスターというドイツ語は奥深いと感じます。

 日本の相撲部屋はこれに近いと思いますが、上(同じく親方)が弟子たちから吸収する、人間なのですからお互い学ぶ、調書があるはずなのにそれを切り捨ていることはどういうことなのか、とも思います。

 しかし、ことサッカー・ワールドカップでいえば、ドイツは4度優勝しておりマイスターに代表される、ある種の遮蔽された空間だけで生きていても、これだけの結果は得ていないと思います。

 逆に代表とブンデスリーガでは、マイスター、つまり指揮官や諸先輩から言われっぱなしではなく、外国籍選手、移籍初年度の選手、そしてルーキーが全く同じ立場で闊達に意見を交わせる、ということでしょうか。

 よく引退したフィリップ・ラームが、代表の空気を明るくしたと言います。

 前任者のミハエル・バラックがある種の権威主義的で、自分と同世代の選手たちの意見を「総意」として、初代表の選手、キャップ数の少ない選手たちに押し付けていたとされます。

 しかし、ラームは民主主義的側面、自分が感じている点、伝えたいと思うことは発言すべきだという観点で主将となり、その点が2014年ワールドカップ優勝につながったように見えます。

 ある意味彼がアンゲラ・メルケルの後任として政治活動を目指したならば、簡単にその座をつかんだ可能性さえあると思います。

 日本ではクラス(階級や職場の立ち位置)を常に考える必要がありますし、そもそも闊達な場などないに等しいのは、現在に始まったことではないと考えますが、皆さんはどうでしょうか。
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日本独自の文脈を考えて

2021-11-03 13:50:59 | 日記
 1995年以来4度目となるワールド・シリーズ優勝を成し遂げたアトランタ・ブレーブス

 大リーグは日本より18チーム多い30チームで運営され、広い米国大陸を移動するだけでなく、彼らナショナル・リーグは勝敗が決着するまで試合は終了しません。

 それだけ競争が厳しく、ニューヨーク・ヤンキースのような最多優勝を誇るチームでも、2009年以降ワールド・シリーズの出場が適っていません。

 日本でも4チーム増加の16チームで運営すべきとの声があがりますが実際はどうでしょうか。

 つまり、ワールド・シリーズ優勝は、今優勝しても「次」の優勝がいつ訪れるのか皆目見当がつかないこと、この点が選手たちを焦らし、練習に集中させているのではないでしょうか。

 それは基本、「30年に1度」しかこないオールスターゲームも同様で、1試合を貴重な体験、観戦の場としてファンと選手に提供したいという運営側、選ばれた都市の重責となります。

 日本のように、オールスターを複数行う国では

 「ファンにたくさん楽しんでほしいから」
 「お祭りは複数回あってもいいと思うから」

 という理由がありますし、全ての野球事例を米国になぞらえることはない、という点はその通りだと思います。

 仮に東京ヤクルト・スワローズ対オリックス・バファローズで日本シリーズが開催されたならば新鮮味はあふれるでしょうが、そうはいかないかもしれない点が、現在のポスト・シーズンではありますが。

 J1は今日にも川崎フロンターレが優勝するかもしれません。

 長いリーグ戦を消化したうえでの優勝は、本当に格別でしょうね。

 日本もかつては2ステージやチャンピオン・シップという独自路線で優勝を決めていましたが、やはり現在の形が最適ではないでしょうか。

 春開催か秋開催か
 代表選手の休暇はどうあるべきか

 という喫緊の問題が解決されたわけではないのですが、それでもJリーグの歩みは確かといえる気がします。
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表現の自由は確かに必要ですが

2021-11-03 13:32:08 | 日記
 日本で大きい支持を集めるエマニュエル・トッド。

 彼の著書「問題は英国ではない、EUなのだ」では、2015年のテロ事件について言及しています。

 (文春新書第6章207ページより」

 テロは2度おき、シャルリ・エブド襲撃事件ち同時多発テロです。

 後者は確か、スタッド・ドウ・フランスで行われたフランス代表対ドイツ代表との一戦の最中、近所で起きたと記憶しています。

 カタール・ワールドカップはイスラム圏の開催ということもあり、宗派問わずイスラム教が国教でない国は警戒すると思われます。

 またシャルリ・エブドを襲った事件で、この際フランス国内では

 1・イスラム教徒への批判的な視線
 2・表現の自由を保護する動き

 が登場したようです。

 ただ、イスラム教では宗派問わずに救世主ムハンマドの偶像、偶像崇拝を禁じており、だからこそキリスト教徒という異教徒がムハンマドの想像画を描いたことに彼らは我慢ならなかったのでしょう。

 僕個人は異教徒が異教徒の慣習に手を出すべきではないと思いますので、シャルリ・エブドが異教徒が「救世主」として尊重し続ける人物をむやみに「からかう」ことはご法度、という印象です。

 確かにキリスト教徒はイエス・キリストと聖母マリアを絵画の材料にしてきましたが。

 ではサッカーにおける黒人や黄色人種への侮蔑的横断幕は、「表現の自由」に抵触するでようか。

 僕はこれらに慣れてしまう可能性の方がもっとしんどいと思いますし、少なくともJリーグではこれらが議題にならないことは、優れた管理と運営ではないかと思います。

 日本でもアダルト漫画が「表現の自由か」「抵触か」で裁判沙汰になったようですが、少なくともこの文言を盾に取るような形は不健全はないかと考えます。

 だからこそ五輪憲章に抵触した2012年韓国代表が日本代表を破り、銅メダルを獲得したサッカー3位決定戦において

 「竹島は我々の領土」

 とシャツに刻印された伝言に多くん批判が集中したのではないでしょうか・
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採点とゲームと選手の声

2021-11-03 00:30:22 | 日記
 他の競技とは異なり、サッカーでは新聞紙上で記者が選手に採点をつけることがあります。

 2000年代前半、セリエAの放映権が日本で取得され、試合が放送されるようになると、ガゼッタ・デロ・スポルトを筆頭に記者が選手の評価を10点満点で採点する方式が認知されました。

 興味深いのは試合中、突然倒れこんだ選手に対し、人工呼吸を施し蘇生させた選手に「10点」など、サッカーという競技だけでなく、サッカーという世界を採点する場合があることでしょうか。

 主観と客観
 ピッチで疲労や汗を感じる選手とそうでない記者たち

 では当然採点の感じ方が異なることもあります。

 何より採点の方が選手の声をかき消してしまうわけですから、記者も選手からの批判や緊張に耐えているとは思いますが。

 僕はサッカーゲームをしません(そもそもゲーム機がないので)が、今は制作側が選手のプレイ数値をゲームに反映し、この能力値も選手からすれば納得のいかない、違和感があることがあるようです。

 僕が一番最初にプレイしたサッカーゲーム

 「ファミリー・コンピュータ 任天堂サッカー」

 は、性能上GK以外の選手は5人までしか反映されず、選手も匿名でしたがすごく楽しめたものです。

 以後、キャプテン翼がシミュレーションの形でゲーム化され、布陣の世界を採用した「フォーメーション・サッカー」が登場し、肖像権の問題もありましたが、「ほぼ」実名で選手が明るみとなりました。

 むしろ当時のような「匿名性」の方が、選手からすれば文句が出ない反面、興味深さは失われてしまうのでしょうか。

 制作側も選手の力量は正確にデータ化した形で販売していると思いますが、選手をアドバイザーに招いて、数値をどうすればより良い形で反映できるのか、訪ねてみるべきかもしれませんね。
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サウジアラビアが考える将来像

2021-11-03 00:15:42 | 日記
 ニューキャッスル・ユナイテッドが、サウジアラビアの投資ファンドに買収されることになりました。

 サウジアラビアという国名は

 「サウジ家のアラビア」

 というもので、国という体ではあくサウジ家の領土という意味合いが強いんですね。

 サウジアラビアはご存じのように「原油」の発掘と共に発展を遂げ、国内に移住する外国籍の人間を厳しく審査することで、国内治安を維持する一方、南アジアからの出稼ぎ労働者が作業を担ってきました。

 サウジアラビアもサッカーは盛んですが、どうしてここにきてプレミア・リーグのクラブ買収に動いたのでしょうか。

 僕個人の推測なのですが

 1・枯渇が目前と呼ばれる原油の精製、そして電気自動車の普及が原油産業を圧迫する
 2・イスラム国との距離

 「2」に菅していいますと、イスラム国の根底にあるイスラムの教えを深く探ると、音楽やボールを蹴ることは快楽的であり、模範的な生活にはならないようです。

 ですからイスラム国が中東を仮に平定すれば、ワールドカップはおろか名誉の大会である「ガルフカップ」すら開かれないかもしれません。

 ですからサッカーを見つめることで、我々はイスラム国に賛同しない、という意思表示なのではないでしょうか。

 今、原油価格の高騰が日本市場でも大きく反響していますが、サウジアラビアも原油「後」の産業を当然考えねばなりません。

 僕の所有する「スズキ・ワゴンR」はマイルド・ハイブリッドですが、いずれこの形も淘汰され水素自動車か電気自動車の2択となるに違いありません。

 ガソリンと原油がいきなり遠のくとは思えませんが、宗教的、経済的価値観が大きく変化する今、サウジアラビアは王室の考えもあるのでしょう。サッカーを通じて新しい印象を世界に与えたい。

 と考えているように思います。

 いずれ買収先がニューキャッスルの理由も明確になるのではないでしょうか。
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