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竹本住太夫 逝く…

2018年05月11日 | 文楽



人形浄瑠璃文楽の人間国宝で文化勲章受章者の
七世竹本住太夫
(たけもと・すみたゆう、
本名岸本欣一〈きしもと・きんいち〉)さんが

4月28日、肺炎で死去した。
93歳だった。

鍛え抜いた芸で味わい深い情の世界を語り続け、
人形芝居の語り手である太夫として頂点を極めた。
戦前の大阪・北新地で生まれ、近松門左衛門の「曽根崎心中」の
舞台となったお初天神で遊び育った。
大阪専門学校(現・近畿大)に進学したが繰り上げ卒業して出征。
復員間もない1946年、二世豊竹古靱(こうつぼ)太夫
(後の豊竹山城少掾(やましろのしょうじょう))に入門し、
豊竹古住太夫を名乗った。
60年に九世竹本文字太夫を襲名。
81年に太夫最高位の「切場語り」となった。
85年、七世住太夫を襲名した。
 「沼津」(伊賀越道中双六))や「堀川」(近頃河原の達引)など、
人の思いやりやしみじみとした情がにじみでる演目を得意とした。
他にも「野崎村」(新版歌祭文)など代表作は多い。
 89年に人間国宝の認定を受け、
02年日本芸術院会員、

05年文化功労者。
07年度に朝日賞を受賞。

08年にはフランス政府から芸術文化勲章コマンドールを贈られた。
14年には文化勲章を受章した。

 12年に橋下徹・前大阪市長が文楽への補助金削減を
打ち出した際は、
積極的に文楽の存在意義や魅力を
愚直に訴え続けた。

しかし、そのさなかの同年7月に脳梗塞で倒れ、
「今までやれていたことがやれなくなった」と、
14年5月の東京公演を最後に現役を引退した。
 現役時代は講演活動や後進の育成など文楽の普及、
発展にも取り組み、
人形遣いの初代吉田玉男さんらとともに
一座の牽引(けんいん)役を務めた。

長年の厳しい稽古で鍛えた声と精妙な息で、登場人物の心情を
分かりやすく語った。

 休演知らずだったが02年に病気で療養。
復帰後の03年には、文楽がユネスコの無形文化遺産に認定され、
再び精力的に舞台をつとめていた。
 引退後もリハビリと弟子の稽古を続け、竹本文字久太夫や
竹本小住太夫らを
育てた。
著書に「言うて暮しているうちに」「人間、やっぱり情でんなぁ」など。 

文楽界の顔しのぶ 竹本住太夫さん通夜に500人 
竹本住太夫さんの通夜が30日、大阪市阿倍野区の
やすらぎ天空館で営まれた。

親交の深かった歌舞伎俳優の坂田藤十郎さんや中村吉右衛門さん、
落語家の桂米団治さんら約500人が参列。
文楽界の顔だった住太夫さんとの別れを惜しんだ。
祭壇には文化勲章や人間国宝の認定証が置かれ、住太夫さんの
舞台映像も流された。

藤十郎さんは「教わったことは私の勉強になった。ありがとう
ございましたと
唱えながら焼香した」と明かし、
米団治さんは「大阪の味を持ってらっしゃる方だった。

この味を継いで後世に伝えたい」と話した。 

テレビのニュースで知って…
やっぱりショックだった…。
文楽界から去ってしまっても、
お弟子さん達の稽古を
していらっしゃるとのことで、
裏から文楽を支え続けてはるんや。
まだまだ御健在なんやなぁ。
そう思っていたもんだから…。 
 
心よりご冥福をお祈り申し上げます。

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