【278~279ページ】
ひまな時はそれでも善いけれど、人手の少なくて困るような時に無理に飯を炊こうとするのは、やはり女に常識の無いためである。そんな事をする労力を省いて他の必要なる事に向けるという事を知らぬからである。--------飯炊きに骨折るよりも、副食物の調理に骨を折った方が、よほど飯は甘味く(うまく)喰える訳である。
【281ページ】
病気の境遇に処しては、病気を楽むというとこにならなければ生きていても何の面白味もない。
[ken] 私が思うには、「女に常識の無いため」ではなくて、正岡子規さんの「自分にかまって欲しい」という気持ちの表現であり、楽しみにしている食事については「臨機応変に、いつでも飯炊きからスタートするのではなく、副食物にこそ気を使ってくれ」との言い分なのですね。
介護される側の気持ちなんて、自分がなってみないと見当もつかないことがありますし、お母さんや妹さんも「良かれと思って動いている」わけですから、この種の課題は現代にも通じるリアリティがあります。
長寿社会で明らかになってきた「老・老介護」問題は、その典型ですね。今も、どこかしこで多くの方々が親族の介護に悩み、ご苦労されている現実は、自分の「行く道」として避けては通れないテーマです。
一方、介護される側としては281ページのように「病気を楽む」気構えが必要なのでしょう。しかし、そうは言ってもいざとなれば「書いたことなどすっかり忘れてしまう」ことが想定されます。自分の体験からして、人はえてして「度胸なし」「弱虫」「泣き虫」「痛がり屋」なのものですから。(つづく)
ひまな時はそれでも善いけれど、人手の少なくて困るような時に無理に飯を炊こうとするのは、やはり女に常識の無いためである。そんな事をする労力を省いて他の必要なる事に向けるという事を知らぬからである。--------飯炊きに骨折るよりも、副食物の調理に骨を折った方が、よほど飯は甘味く(うまく)喰える訳である。
【281ページ】
病気の境遇に処しては、病気を楽むというとこにならなければ生きていても何の面白味もない。
[ken] 私が思うには、「女に常識の無いため」ではなくて、正岡子規さんの「自分にかまって欲しい」という気持ちの表現であり、楽しみにしている食事については「臨機応変に、いつでも飯炊きからスタートするのではなく、副食物にこそ気を使ってくれ」との言い分なのですね。
介護される側の気持ちなんて、自分がなってみないと見当もつかないことがありますし、お母さんや妹さんも「良かれと思って動いている」わけですから、この種の課題は現代にも通じるリアリティがあります。
長寿社会で明らかになってきた「老・老介護」問題は、その典型ですね。今も、どこかしこで多くの方々が親族の介護に悩み、ご苦労されている現実は、自分の「行く道」として避けては通れないテーマです。
一方、介護される側としては281ページのように「病気を楽む」気構えが必要なのでしょう。しかし、そうは言ってもいざとなれば「書いたことなどすっかり忘れてしまう」ことが想定されます。自分の体験からして、人はえてして「度胸なし」「弱虫」「泣き虫」「痛がり屋」なのものですから。(つづく)