哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

“不便”は人の心に響く

2010-08-28 02:30:30 | 時事
 先日たまたま民放を見たら、表題テーマの番組を放映していた。

 ある車ディーラーでは、ドアを自動から手動に変えて、店員が顧客来店時にわざわざドアを手で開けてあげるそうだ。そうすることによって、顧客とよりコミュニケーションが図れるという。また、離れた親戚同士の交流の一環として、親戚一同用に手書きの新聞を発行するという取り組みも紹介されていた。手書きという手間によって、より気持ちが伝わるという。

 池田晶子さんなら、それみたことか、というだろう。世の中が便利になっても人間は何も変わらないとよく書いていたものだ。



「そもそも、便利さを求めることによって、何を求めているのかが明らかではない。便利になれば時間が節約される。しかし、その節約された時間を何に使うかというと、やっぱりその仕事をするために使うわけである。ゆえに、便利になることによって、仕事はより忙しくなっているはずである。より忙しい生活になるためにこそ、便利さは必要というわけだ。
 そうでなければ、便利さにより節約された時間は、ロクでもない娯楽に浪費される。時間をもて余し、することのわからない現代人が、ネット内で交わすおしゃべりの愚劣さを見ればわかることだ。」(『知ることより考えること』「便利は不便」より)



 便利さによって、人間同士のコミュニケーションが失われていっているとすれば、我々は一体何のために便利さを追求したのだろう。新幹線や飛行機などで、移動時間も大きく節約できる時代だから、人間同士のコミュニケーションは増大が図れるはずではなかったか。あるいは簡単には行けない遠い地を訪れることによって、知見を深められるはずあるのに、それを娯楽で浪費してしまっていないか。そうだとすると、便利は不便どころか、人間の退化を招いているともいえる。

 冒頭の自動ドアを手動に変える事態のように、便利を不便に戻す姿は、なんとなく滑稽である。便利を追求するのは何のためか考えず、結局手段が目的化してしまった結果のように思える。