哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

生死は平等である(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-09-03 01:16:30 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「生死は平等である」という題でした。今回は三つのキーワードを挙げて、それらに関して池田さんがこれまで書いたことがほとんど世間の人に通じていない、というものです。



「「言葉」、この話題はすんなり通じるか、全く通じていないか、どちらかのような感じがする。
 「自分」、この話題はたぶんほとんど通じていない。
 「生死」、この話題がどうも一番厄介だということに気がついた。生死こそ人間の最も本質的な問題だが、だからこそ通じていない。多くの人は死に方のあれこれをもって死だと思い、本意だ不本意だといい、気の毒だ立派だと騒いでいる。しかし「死に方」は死ではない。現象は本質ではない。本質とは「死」そのものが何であるかであるが、これが通じない。
 生きるのは権利であり、死ぬのは何かの間違いであると思っている。しかし、生死することにおいて、人は完全に平等である。すなわち生きている者は必ず死ぬ。癌も心不全も脳卒中も、死の条件であっても、死の原因ではない。すべての人間の死因は生まれたことにある。どこか違いますかね。」




 確かにどこも違わないですね。以前どなたかの死に方の話で、いろんなブログで池田さんが反発を受けていたのを見たことがありますから、それを言っているのでしょうか。

 「死に方は、死そのものではない」は、現象と本質を分けた、まさに直球的言質ですね。では死とは何か。これが実は簡単にはわからないので(だから考えるのですが)、世間に通じるのが困難なのは謂わば当然ともいえるかもしれません。


 本文の最後の方に、「「言葉」「自分」「生死」と、あえて3つに分けてみたが、もとはひとつである。ひとつの真理の違う側面である。」と書いてあります。

 この「ひとつの真理」とは何でしょうか。


 池田さんのこれまでの文章から推測するに、おそらく「存在」を言っているのでしょう。「はじめに言葉ありき」「自分に対する他者の存在」「生死=有と無」、つまり、すべて存在とは何か、という究極の本質を考えることに繋がります。そして「存在」とは、これも簡単には結論が出る話ではないので(だから「考える」のですが)、やはり世間に通じにくいのは仕方がないのかもしれません。