哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

森 澄雄さん(俳人)

2007-09-02 07:50:00 | 時事
 長島茂男さんの後に「私の履歴書」を書いていた森澄雄さん。そこに掲載された多くの俳句には、実のところ大変驚かされました。俳句というものが自然の描写を超え、これほどまでに情念の深いものかと、そしてその表現力の豊かさに本当に驚きを覚えたのです。少し引用してみたいと思います。



森さんは新婚の頃、病気と闘いながら、教師の職をえて貧しい一家の生活を支えていたそうです。また貧しい小さな家では、家の中の音は何でも聞こえたと。

 冬雁や家なしのまづ一子得て

 枯るる貧しさ厠に妻の尿聞こゆ

句会で少し色気のあるのを書こうと言って書いたこの句が森さんの代表句になったそうです。

 除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり

妻の死に際し、その恋しさから書かれた句。それからお経を上げるようにいくつもの句を作ったそうです。

 木の実のごとき臍もちき死なしめき

 なれゆゑにこの世よかりし盆の花

 汝(ナレ)を恋ふゆゑにまた咲く沙羅の花

 妻ありし日は女郎花男郎花(オミナエシオトコエシ)

その後森さんは大病をして、現在左半身不随になっているそうです。

 点滴はまだまだ長し鵯(ヒヨ)のこゑ

 死ぬ病得て安心(アンジン)や草の花

 水仙のしづけさをいまおのれとす



 俳句は世界で最も短いポエムと聞いたことがありますが、これらの俳句はその一瞬の自然と共に人間の深い情をこれほどにも深く刻んでいます。そして極限まで削ぎ落とされた、石の彫刻のごとく動かない、ずしりとした言葉といえるのではないでしょうか。


 連載の最終回、森さんはこんな風に結んでいます。(一部抜粋)

「ぼくがいくらでも俳句ができるのは、頭を使わないからである。向こうにある大きな自然からそのまま句をもらい、ああだこうだと考えない。・・老子の言う「無為自然」がいちばんいい。俳諧はもともと大きな遊び、虚空の遊び、その自由をぼくは楽しんでいる。

 おのれまたおのれに問うて春の闇」


 なんとなく、池田さんのいう天才-天と直結した自覚-にも通じる話だと思いました。