哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

池上彰の学べるニュース

2010-12-12 08:01:01 | 時事
 世間では「池上彰の学べるニュース」というテレビ番組が、わかりやすいと評判だ。しかし、わかりやすいということはどういうことなのか。そもそもわかるということはどういうことか。『残酷人生論(増補新版)』の冒頭に「わかる」ということに関する文章が置かれている。



「あるとき私は気がついたのだが、人は、「わかる」という言い方で言われているところのその事態を、すでにわかっている。わかっているからこそ、何事かに関して、「わかる」「わからない」ということができるのだと。・・・未然形「わかろう」と命令形「わかれ」は、文法としては可能であっても、思考もしくは認識の事実としては明らかに不可能である。・・・「わかる」という事態は、「自分の」力によるものではない、「わかる」のはじつは自分ではないということなのだ。」(『残酷人生論(増補新版)』「「わかる」のは自分ではない」より)


 わからないものを、わかれ!と言われても、わからないものはどうしようもない。そういう意味で、わかるかわからないかは自分の力ではない、という池田晶子さんの謂いは確かにそうだ。

 さらに言えば、わかっていないのに、わかったつもりになってしまうことが、大変始末が悪い。だから、例えば池田さんの書いていることでも、本当にどこまでわかっているのか、常に自らを疑って、得心がいくように自問自答することが必要になってくる。そもそも「わかる」という言葉を普段使いつつも、段階的にわかっていくこともあるだろうし、あせる必要はないものの、わかるのが自分の力ではないだけに、まるで彷徨しているような感覚にも陥る。

 本を読んで著者の考えをトレースしてわかった気になっても、それは著者の頭を借りて考えただけで、本当に自分で考えたわけではないから、本を閉じたときから自分の思考は始まるといえる。いや、池田さんに言わせると、自分の思考ではなく、誰のものでもない「考え」が始まるというべきなのだろう。



 池上彰氏の番組も、見ただけでわかったつもりになっていても、見終わってよくよく思い出せば、あるいは自分で考え直せば、結局何もわかっていなかったことに気づくのではないか。そもそも「わかりやすい」ということは、自分の思考ではわかっていないことを前提にしているから、まだ自分でよく考えていない証左ともいえる。

 池田晶子さんがよく書いているように、情報は知識になりえず、知識は自ら考えることなく得ることはできないということが、そのまま当てはまる。