哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

スポーツはバトルか

2012-08-04 01:44:22 | 時事
ロンドンオリンピックが始まり、報道ではいくつメダルを取れたかが最大の関心事のようだ。その中でも中国やアメリカのような大国が多く金メダルを取るのは当たり前と思えても、北朝鮮が多くの金メダルを取っていることに疑問を呈する報道があった。相当数の国民が飢えで苦しんでいるはずなのに、スポーツに注力できる環境があるとは考えにくいからだ。その報道では、北朝鮮が躍進している理由として、金メダルを取れば破格の待遇を得られるが、負けると収容所行きになるという話だ。そのような話の真実のほどは知らないが、もしそうだとしたら、北朝鮮こそがスポーツを本気のバトルとして捉えていることになる。まさに生きるか死ぬかの争いをしているのだ。

もう一つ問題になっているのが、八百長だ。バドミントンで金メダル候補が無気力試合をしたとして失格になったり、なでしこジャパンも監督が引き分けに試合を持っていく指示をしたという報道がされている。あくまでスポーツとして闘うベキとするなら、このようなスポーツマンシップに違う行為は違反として排除すべきなのだろう。しかし、スポーツを本気のバトルと捉えるならば、あらゆる手段を使って勝ちに行くことが正当化されてもおかしくない。わざと負けて次の対戦相手の選択を有利にするのは、作戦として当然の行為となる。


もちろんスポーツをバトルとして捉えるのが正当だと言っているわけではない。ただ、オリンピックが国同士の戦争の代償行為のごとくなっている現状では、バトルとして捉えて行動する行為が出てきて当然だし、そもそも古代オリンピックも報酬目当てに八百長が盛んだったというから、人間のやることは2000年経ってもたいして変わらない証左とも言える。



増税が公共投資へ?

2012-07-31 01:01:44 | 時事
 待った無しの消費税増税だったはずなのに、増税分余裕ができるから、増税による経済の落ち込みを避けるため、公共投資をしようという政治の動きを報ずる報道があった。しかもそのように主張するのが、民主党の議員もいれば、自民党の議員もいた。

 なんだ、結局地元への利益誘導しか頭にない国会議員が多いらしい。確かに以前に新聞記事で、かつてこの国は増税をするたびに借金返済に回さず公共投資に回してばかりきた、と指摘した経済学者がいたが、全くその通りの展開になっている。これでは、グッチーさんの言っていた通り、増税で財政再建できた国は過去にない、という話のほうがもっともだったということになる。

 増税による財政再建なんて、政治家はもちろん財務省も元からやる気はなかったのかもしれない。財政支出も減らさないと意味がないのが前提なのに、余裕ができたからと称して増やそうとする意見が出ること自体あきれる。一体どこに余裕があるというのか。借金ができるならできるだけする、増税ができるならできるだけする、というのが彼ら政治家と財務省の考えだったとすれば、余裕があるという説明もつく。増税も借金ももうできなくなって、どうしても財政支出を減らさなくてはならなくなって初めて減らせばいいという考えだということになるからだ。

あのギリシャから富裕層が脱出をはかる準備をしているとの話だが、増税と借金が増え続ける日本からも脱出する人が増えてもおかしくないような気もしてきた。

スポーツとバトル

2012-07-24 03:32:00 | 時事
今月の文藝春秋誌の塩野七生さんの連載のテーマは、ロンドンオリンピックにちなみ、スポーツとバトルの間についてであった。オリンピックでの戦いを、単にスポーツとして捉えるか、それよりも真剣なバトルとして捉えるかによって、勝とうとする本気度が違うという。塩野さんによれば、日本は他の国に比べて、スポーツとしてしか捉えていないから勝てないというのだ。さらには、裕福で心配の少ない国ほどバトルに真剣にならないためか、スポーツの勝負に勝てないという。また、生活に心配のない国ほど、今度は残忍な虐殺事件が起きてしまうとして、ノルウェーの乱射事件を取り上げている。そういえば、いまだに日本でも無差別殺人事件が続いているし、つい先日アメリカでも映画館での乱射事件が発生した。

そもそもオリンピックは平和の祭典と謳っているから、国家間の戦いのように考えるのがおかしく、常々池田晶子さんが書いているように、国別対抗のような扱いを無くすのが筋であるように思える。しかし、オリンピックが戦争の代償行為となり、塩野さんのいうように、市民の闘争心のはけ口となるようであれば、それで本当に実際の戦争行為や虐殺行為が減るならば賛成できそうな話である。では果たして、スポーツを真剣なバトルと考えて戦うようになったとして、それで本当に戦争が減って世界や社会の平和につながるのだろうか。

この点はどうしてもまだ得心がいかない。オリンピックが真剣なバトルになれば、それがかえって国家間の感情的な対立として戦争の火種になりかねないように思うし、仮にオリンピックで闘争心を解消できても、現実の資源や領土を巡っての争いがなくなるとは考えにくいからだ。

確かに塩野さんの書いているように、明日の暮らしにも不安があるような国内状況の国では大量殺人が起きないというのはわかるが、かつて第二次世界大戦へ突き進んだドイツのように国内の不安や不満が国外への侵略行為に転嫁してしまうケースもあり、国民の生活状況の困窮が闘争心のはけ口としてうまく機能する保証もなさそうに思える。


かつて近未来を扱った映画で、戦争や殺人が無くなって社会が平和になったかわりに、選ばれた戦士が合法的に殺しあってそれを観戦するスポーツが行われているというのがあったように思うが、このようなスポーツが実際にあったとして、おそらくそれを現実に摘要しようとする輩が出てくるのが世の常であるように、どうしても思えてくる。

無戸籍の人

2012-07-17 23:03:30 | 時事
無戸籍の人をテーマとするドラマが始まり、少し見たが、非常に印象的なシーンがあった。主人公が無戸籍を通告されるところで、戸籍が無ければ死亡診断書を届ける先もなく、存在しないのと同じだ、と言われるシーンだ。確かに指摘の通り、生きていることを前提としたあらゆる行政関連手続きが行えず、死ぬことさえも手続き的にできないから、最初から無であるかのような感覚に囚われる。

無戸籍だから存在しない、という意味は、日本国民という意味で存在しないことになるのだろうか。しかし、外国籍もないわけだし、親が日本人として存在する以上、無国籍というのもありえないように思える。ただ、日本国民としての各種行政サービスが受けられず、参政権もなければ統計上の日本国民にもならないというだけである。今「だけである」と書いたが、これだけでも、そうとう不便ではあると思うが、想像するしかないのでよくわからないところもある。


それにしても、戸籍がないと存在しないのと同じ、という言い方は、池田晶子さんにかかったらもっとばっさり斬られそうだ。戸籍によって日本人であったり、名前が与えられたりしなければ存在しない、というのは、そもそもそのようにしてでしか存在できないと本人が思い込んでいるにすぎない。人はなぜ自分を日本人だと思っているのか。


「むろん私は日本人である。アメリカ人でも中国人でもなく、日本国籍を有する日本人である。しかし、それは、池田某が日本人であるのであって、「私」が日本人であるのではない。「私」は何国人でもない。どの国家どの民族にも属してはいない。」(『考える日々』「自分が何者でもないということを」より)


『8 はじける知恵』(あすなろ書房)

2012-07-10 06:38:00 | 哲学
前回紹介した本と同じシリーズの掲題書籍にも、池田晶子さんの文章が載っている。『考える日々』からの文章だ。今回は、若い人からの手紙を紹介し、お勉強としての「哲学」ではなく、自ら「考える」ことを実践している若人が増えていることを素直に喜んでいる。
また、同じようなことを考えている人は少なくないとしながら、表現には個性が出るはずとも書いている。確かに、有名な哲学者も含め、池田晶子さんの言う通り、人間の言語と文法によって存在を考える限り、そんなに違ったことにはならないはずだが、逆に表現が様々な中から正しい哲学原理を把握することは、むしろ情報量が増えるほど物理的には困難になるかもしれない。本屋の膨大な書籍の中から、池田晶子さんのような文章に出会えるのも偶然な邂逅である。真っ当な表現に確実に出会うには、やはり古典に回帰することなのだろう。
それにしても、今回池田晶子さんらしい文章だと思うところは、人類の進化について言及している点である。池田晶子さんはよく、「賢く」なっていない人類の行為を指摘することも多いが、今回は、後の人類ほど賢くなっているはずという知恵の進化論みたいなものを仮説として書いている。池田晶子さんがいくつか提唱している仮説の一つである。この仮説がいずれ証明されるかどうか、は「考える」若人に期待するところだ。

『6 死をみつめて』(あすなろ書房)

2012-07-02 22:19:19 | 哲学
「中学生までに読んでおきたい哲学」というシリーズのうちの1巻として、掲題の本が書店に並んでいる。この本のことは先日ある新聞の広告欄で知ったのだが、いろんな人の文章の寄せ集めであり、なんと池田晶子さんの文章が載っているというので、入手してみた。

池田さんの文章は「無いものを教えようとしても」というもので、『考える日々』からの文章だった。編者があとがきで各文章を評しているが、池田さんの文章については面目躍如と好評価しているようだ。

ところで、気になるのは他の人の文章との相性だ。埴谷雄高氏や河合隼雄氏など、池田さんと親和性の強そうな人の文章もあるが、他の人の文章はどうだろうか。

かつて中学生向けの、いろんな人の文章の寄せ集めという点では同様な『中学生の教科書』という本で、池田晶子さんは自らの主著となる『14歳からの哲学』の一部にもなる文章を書いているが、それを後に「寄稿扱い」としている。その理由は、『中学生の教科書』に掲載した他の作家の文章内容が、池田さんにとって「同意しかねる」内容だったからだ(詳しくは、『考える日々Ⅲ』の「換金できない言葉の価値」を参照)。

今回の表題の本も、大変多くの作家らの文章の寄せ集めであるが、全体的に池田さんが同意してくれる内容なのか、池田さんは死についてよく書いていたから、ちょっと心配ではある。


図書館利用の勧め

2012-06-26 02:29:30 | 
webで本を簡単に買えても、本屋で未知の書籍に出会う楽しみは捨てがたい。それに、何か調べ物をする時に、webでかなり情報が集められるにしても、行政で作成された刊行物など、得難い資料が図書館にあったりする。

おかげで最近少し図書館を利用するようになってきた。転居のたびに大量の本を梱包移動するのが大変でもあるし、話題になった本は一度読むと二度と読まないことも多い。図書館には必ずしも欲しい本があるわけではないが、意外と揃っている分野もある。


ところで、買った本を読んだ後、古本買い入れの全国チェーンに売る人も世間では多いようだ。私もかつて何回か利用したことはあるが、基本的にそこに本を売るのはあまり好きでない。単純に言って、本の値付けがあまりにも乱暴な気がするのだ。リサイクルだから安く引き取って当然という考えなのだろうか。

ある日にちょっとそういう店を覗いてみたところ、本を売りに来た人が居て、店員が言うには「10数冊(正確な冊数は記憶していない)で95円です。いかがされますか。」と。1冊あたり5~10円の値付けのようなのだが、元値はもちろん100~500倍しそうな本ばかりである。売る方は捨てるよりはまし、買う方はリサイクルという大義名分もあるのだろうが、ガソリン代くらいにしかならないような、引き取り額のあまりの安さは、儲けさせるビジネスモデルにまんまと乗せられているような気がどうしてもする。

そこで買った本をまたそこで売るようにも勧めているようであるが、何となく所有権が移転する貸本のようだ(言葉上矛盾しているが)。であれば、無料の貸本である図書館を使わない手はない。図書館の難点は公営だから、予算内で買う本が限られており、最新刊ほど読みたい本がなかなか手に入らない点であろうか。逆に言えばブームを少しすぎた人気書籍なら比較的入手しやすい。

公立図書館を使うようになって積ん読が少し減ってきた。基本的に貸出期限内で読み終えるか、つまらなければ途中で読まずに返すからだ。本屋で手にとって気に入っても、入手してじっくり読み出すとあまり面白く読み進めないこともよくある。貸出なら気軽に借りて読めるからよい。

オウム真理教信者の逮捕

2012-06-19 03:53:35 | 時事
 サリン事件で指名手配されていたオウム真理教信者が相次いで逮捕された。十何年も偽名で隠れて生活するというのは想像を絶するが、最後につかまった男性はいまだに麻原彰晃やオウム真理教を信じているというからなおさら驚く。報道で、久しぶりに麻原彰晃が宙に浮いているという写真も見たが、またもやテレビキャスターの人は、汗をかいているから一瞬飛び上がっただけで神秘なことではない、とか説明していた。


 ご存じのとおり、池田晶子さんVSオウム真理教も因縁深いところがあり、何度も書いているが、神秘体験とかについて書かれているところを引用する。


「最も当たり前のことこそが、最もわからないことなのだと気がつけば、超常現象なんてものは、存在しなくなるのである。「わからない」すなわち神秘、日常こそが、神秘である。世界が在ること、自分であること、そいつが生きて、そして死ぬこと、これら当たり前のことの全てが、驚くべき神秘の出来事である。日々刻々、この驚くべき神秘を体験しているというのに、なんでわざわざ別の所へ、神秘を体験しに行く必要があろう。空を飛んだのオバケを見たのなんてのは、この絶対的神秘に比べれば、オマケみたいなもんである。そんなことは、あってもなくても、どっちでもいいのである。オバケの存在に驚く前に、自分の存在に十分に驚いているものだろうか。」(『41歳からの哲学』「当たり前とは何であるか-再び宗教」より)



 偽名で隠れ続ける「自分」というものを、逮捕された彼はどう考えていたのだろうか。いまだに「信じている」という、その精神状況を想像することは不可能だが、十何年間逃げ続けながら、そのような信仰に関する考えが一切変わらなったということは、やはり思考停止をしたままなのかもしれない。


『日本古代史と朝鮮』(講談社学術文庫)

2012-06-11 01:59:00 | 時事
 NHK大河ドラマ「平清盛」を毎週見ているからかわからないが、日本の古代史に興味をもち、たまたま書店のフェアーで棚に並んでいた表題の本を読んでみた。

 かつて学校で日本史を学んだ頃には、どうしても日本民族を中心に考えて、周辺国をとらえてしまいがちだった。それでも、文物や技術は先進である大陸から入ったことは間違いないこととして学ぶ。しかし、学校でははっきりと学ばなかったと思うが、大和朝廷以前の日本においては、文化も技術も先進である朝鮮からの渡来人が支配者層(当然皇室も含む)を形成したようである。したがって、大和朝廷も渡来人系が中心となっていることも容易に想像できる。そもそも奈良という言葉も、朝鮮語で国の意味だ。

 表題の本によっても、弥生時代に稲作が入ってきた頃から、渡来人が多く現在の日本の地に来ており、とくに飛鳥の地などかつて都のあった場所は、ほとんど渡来人系で占めていたという。飛鳥の風景は、現在散策してものどかなイメージであるが、実は韓国での古くからの土地とかなり雰囲気が似てるという。

 表題の本のメインテーマは、大化の改新と壬申の乱が、当時の古代朝鮮半島の国々の争いが古代日本における渡来人系の支配層における争いに反映したものとする点だ。土着の日本民族を優位に置く皇国史観によって歴史が捻じ曲げられているとして、その修正を迫る内容である。日本を単一民族と考える人は少なくなっているとは思うが、イデオロギー的にそう捉えようとする人は、この本の冒頭を読んだだけで嫌悪感を感じるかもしれない。しかし、素直な、公平な感性でぜひ読むべきであろう本である。むしろ現在の政治家や学者で、朝鮮半島や中国に対して日本民族の優位を声高に叫ぶ右系の人も、先祖をたどれば優秀な渡来人系かもしれない。日本と朝鮮あるいは中国も含めて、地理的に近いのだから、民族的には対立性よりも親近性が高くて当たり前である。所詮人類史をたどれば、すべての民族の生成以前はエチオピア辺りの人類発祥の地の血を受け継いでいるのであれば、民族対立を殊更にあおることはない。


 話は戻って、この本によれば極端な話かもしれないが、現在の皇室につながる古代の支配層はもちろん、平安時代の貴族やその後に台頭した武士も、また昔は学問修得が主であった僧たちも、かつて先進文化や技術を持ってやってきた渡来人系が中心となっているということだ。ただ、言葉として日本古来のやまとことばというものも存在するから、縄文時代からの土着の民たち(これを日本民族としてもあまり意味はないが)も、被支配層として多くの人口がすでに存在したのであろう。古代におけるグローバルな交流を想像しながら歴史を学び、ぜひ現代の国際交流にも生かしたいものだ。



『反・幸福論』(新潮新書)

2012-06-04 22:06:00 | 
 著者の佐伯啓思氏の文章はこれまでも時々読んだことがあり、そんなに悪い印象はなかったのだが、この本についての読後感はあまり印象はよくなかった。読んでみて、雑誌の連載をまとめたからかわからないが、言いたいことがちょっとわかりにくく感じたのだ。

 例えば、トルストイが『人生論』で正しいとする人生観に、著者は必ずしも賛成せず、そのトルストイの人生観に対峙させるかのように、福沢諭吉の人間蛆虫論というものを取り上げる。ところが、その章の最後では福沢諭吉とトルストイの謂いが共通するとしているように終わっている。著者自身の思考の流れを追っているのかもしれないが、結局どう考えているかがわかりにくい。


そもそも「反・幸福」とはどういうことか。あとがきには、幸福でなければならないというこの時代の精神に多少あらがってみたいとあるが、その少しあとの文章では、不幸をそのものとして受け止めて心の安らぎを得ることを、日本人の価値観の奥底だとしている。なぜ、心の安らぎを得ることは、幸福ではないのだろうか。この本の冒頭には、幸福度の世界ランキングの話もあり、著者は、物質的豊かさや自由、権利を追うことを幸福と考えることに対して、「反・幸福」と称しているようである。


 それでも、サンデルや尖閣など、チャレンジングな話題を取り上げており、考える材料としての話題群は面白い。もし、池田晶子さんが雑誌の連載を続けていたら、これらの話題をどう料理しただろうか、と思いを巡らせることができる。