哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

『ハイデガー拾い読み』(新潮文庫)

2012-11-11 23:38:23 | 哲学
 文庫の新刊だというので、早速読んでみた。この本の著者によれば、ハイデガーの講義録はわかりやすくて面白いから、それを拾い読みにしたのだそうだ。しかし、難解な用語解説が長々とあったりして、そんなに気軽に読めるような内容ではなかった。それでも、面白い部分もあったので、少し引用してみよう。プラトンに関するところである。


「要するに、ハイデガーの考えでは、〈哲学〉とはプラトンのもとではじまった知の形式であり、プラトンの〈イデア論〉からうかがわれるように、生成消滅する〈自然〉の外に〈イデア〉のような永遠に変わることのない存在、つまりは超自然的な原理を設定し、それを参照にしつつ自然を見る〈超自然学〉つまり〈形而上学〉だということになる。」(P.163)


 このプラトンに対して、ニーチェは「プラトンとともに何かまったく新しいことが始まった。・・プラトン以来、哲学者になにか本質的なものが欠けている」と批判したそうで、ハイデガーもニーチェの考えに同調しているということだ。


 さらにこのあとの文章では、プラトンがイデア(本質存在)を真の存在と見ているのに対し、アリストテレスは事実存在に優位を認めるとして、西洋哲学の進行を決定付けた二人の関係をハイデガーが解き明かしている、と紹介されている。確かにこのあたりの話も簡単ではなかったが、大変面白い内容であった。でも、池田晶子さんは、これらのことをもっと日常の言葉で端的に表現していなかったか。


「プラトン イデア界なんてものが、いったいどこにあるというのか、それこそこの目に見せてもらいたいですよ。
ソクラテス どっか別のところにあると思うんだろうな。
プラトン どっか別のところにあると、自分で思ってんだから、実現しないのは当然ですよ。自分の中にしかないってのに。」(『さようならソクラテス』「理想を知らずに国家を語るな」より)


『寅さんとイエス』(筑摩選書)

2012-10-30 21:43:00 | 
小学校の夏休みには、毎年祖父に連れられて映画の寅さんシリーズを見に行った。本当は怪獣映画が見たかったが、松竹の無料券だったらしく、寅さんしか選択肢がなかったのだ。毎年見ていると、概ねワンパターンのストーリー展開に慣れてきて、寅さんのユーモアに愛着が湧くようになった。小学生にしてみれば少しませた大人の世界であるが、ストーリーは主人公の恋愛ストーリーが軸であるから、そんなに退屈ではなかった印象がある。


さて、表題の本はそんなフーテンの寅さんと、史実上のイエス・キリストとの共通点を論じた最近の話題作である。もっとも共通するというのは、ユーモアがあった点のようだ。イエスはすこぶる愉快な人物だったそうで、イエスと一緒に食事をすれば、誰もが明るく楽しい気分になったという。寅さんもユーモアにかけては一流なのだろう。ユーモア以外にも、色気やつらさなど、イエスと寅さんの共通点を挙げて論じている。


そういう意味で大変面白い本であったが、数々の共通点があるとはいえ、それでも寅さんとイエスは決定的に異なると思わざるを得ない。それは刑死という違いだけではなく、もっとも異なるのはイエスが多くの民に実際に慕われ、大衆の支持を集めた点であろう。寅さんは所詮、柴又と旅行先との行き来で、旅先の人々との出会いと別れの繰り返しに過ぎない。イエスは多くの民に慕われ、その結果、為政者や旧来の勢力に敵対視された。それはご存じの通り、ソクラテスに近い。


イエスの行動は、貧しい人たちにやさしいが、時に激しい行動をとる。寅さんも他人のために労をいとわないが、イエスのような激しさはない。だから映画の寅さんも、誰もが安心して見ていられるのだ。きっとイエスが生きていたら、その行動にはとてもハラハラさせられたのではないだろうか。存命中の池田晶子さんの連載記事の言葉にも、私たちはハラハラとさせられたように。

葬式

2012-10-14 03:17:30 | 時事
近しい身内の葬式があった。亡くなった者も、つい直前までは普通に電話で話していたが、突然の心筋梗塞で亡くなったと、医師には推定された。動かなくなり、化粧をされた遺体の顔を見たとき、その人物がもはやこの世に存在しないということの意味を、未だ目の前に残っている顔を見る限りでは、すぐには受け入れ難い気持ちにもなる。

「死は存在しないが、死体は存在する。」というのは池田晶子さんの謂いであるが、確かに死は無であるから存在しない。そして、死体が本人の姿で残っている限り、存在しない「死」を直接捉えることはできず、しかも生前の姿と重なるから、死んだということ自体がなかなか心情的にも受け入れ難い。結局、死体になった状態だけでは動かない体があるにすぎなから、まだ死の完遂ではなく、死体として何らかの処理(具体的には荼毘に付すのが決定的だろうが)をしない限りは、生きている者は死を捉えきれない。池田晶子さんも同じようなことを書いている。


「死ぬということと、死体になるということは、よく考えると同じことではない。・・・死んだ本人が死んで存在しなくなったのかどうか、生きている我々には、やはりわからないのである。
わからないからこそ、葬式をするのである。考えるほどに、死ぬとはどういうことなのか、その人は死んだのかどうか、わからなくなる。それで、わからない死を、わかったことにするために、葬式が要るのである。わからないのになぜそれが可能かというと、そこに死体があるからである。物としての死体がそこにあるから、それをもって、その人が死んだということに、とりあえず「する」のである。その意味では、死とは、社会的な決め事以外のものではない。
このように、葬式とは、死んだ者の問題ではなくて、生きている者の問題なのである。」(『41歳からの哲学』「再び、死んだらどうなるー葬式」より)


亡くなった近親者は、いかにも葬式らしい装いが嫌だったそうで、祭壇に菊の花は飾らず、棺も色つきの派手なものになっていた。死んだ本人が見るわけでもないのであるが、生きている者にとっては、葬式の最中もまるで本人が生きているかのように物事を決めていく。そして、棺の蓋を最後に閉める時には、最後の別れとして遺族は遺体と向きあうのだが、遺族の感情はここで最も高ぶってしまう。やはり、死体が生きていたときの姿で現存する限りは、死んだ本人はまだ完全には居なくなっていないように思えるのだ。それでも、最後の別れとして死を受け入れなければならないから、感情が最も高ぶる気持ちも理解できる。

そして、生きている者は葬式後、戸籍関係をはじめ多くの手続きをしなくてはならない。それが終わらないと、社会的には死んだことにはならないのだ。先ほど、池田晶子さんの文章に「死は社会的な決め事以外のものではない」とあったが、法治国家における死というものは、それこそかなり形式的なものだということを痛感する。






子を殺害する親

2012-09-26 02:31:00 | 時事
我が子を放置して死なせるという事件が、最近もよく報道されている。夏の暑い時期にパチンコ店の駐車場内の車に放置されて熱射病で死亡したとか、そもそも幼児の世話を放置して死なせたとかあるが、とくに目立つのが、パチンコにのめり込んで子供を放置するケースだ。両親がパチンコに行っている間、幼い子供たちが何かを触っていて火事になって焼死したケースもあったように思う。

パチンコにそこまでのめり込むというのが、いかにも人間らしいのだが、この何かに異常にのめり込むということは、パチンコに限らず人間の習癖のようだ。かつてカジノにのめり込んだ大会社の御曹子が居たが、とくにギャンブルは人間にとってめり込み易いものなのだろう。ただ、ギャンブルは競輪競馬のように男性がのめり込むケースが多いように思っていたが、なぜかパチンコにはまるのは女性も結構多いようだ。そして子育てよりもパチンコに興じる姿は、人間だからこそできる行為である。


人間だからこそ子どもの虐待という異常行為を行うということを、池田晶子さんは次のように書いている。


「あれら虐待する親たちを指して、「人間ではない」と人は言うが、これは逆なのである。人間だからこそ、あのような所行が可能なのである。もしも人間が完全に自然的な存在であり、その自然にまかせて子供を作ったのなら、やはりその自然にまかせて子供を育てるはずなのである。
けれども、人間は半端に自然を脱した存在だから、自然ではあり得ない勝手なことを、意志と称してあれこれ仕出かす。しかし、自分が何をしているのかを理性により自覚しないそのような人間は、だからなるほど未だ人間ではない。しかし動物でもない。何かそのような異種動物的人間が存在するから、人間社会は責任という人為的概念を必要とするのである。」(『41歳からの哲学』「虐待するなら子供を作るなー親」より)


このあとの文章で池田さんは、親である資格がないというなら性交する資格をこそ問うべきであろう、と書いている。確かにそう言えてしまうのは面白いが、何か人間は根本的に間違っている存在なのではないかと思えてしまう。しかし、それでも性交をも資格化するような理性によってしか、本当の人間らしい人間社会を作る方法はないようである。そうしなければ、いつまでもパチンコに興じて子育てをしないままであることが目に見えている。




反日デモ

2012-09-18 23:43:23 | 時事
中国の反日デモが激しいという。尖閣諸島の問題だけではなく、中国現政権に対する不満もあるというが、直接的には、日本のものだとわかるものが暴力の矛先になっているそうだ。だから、日本食の店が中国国旗を店頭に掲げたり、日本を表すデザインを隠したりしているという。日本車のボディに、魚釣島は中国のものだ、というシールを、お守り替りに貼っている映像もあった。


さらに、日本人が殴られたという報道もいくつかあったが、いずれも「日本人か?」と聞かれて、殴られているというから、何となく可笑しく感じる。報道では、その日本人がどのように答えたかは明らかではないが、聞かれたからには日本人とわかる反応をしたのだろう。逆に言うと、日本人かどうかを聞かないとわからなかったわけだから、わからないままだったら、暴力を振るいようがないわけだ。


目の前の人物に何か復讐の思いがあるわけでもないにも関わらず、日本人というレッテルが貼られることによって暴力を振るうとか、もしかしたら壊された商品も中国製かもしれないのに、日本というレッテルがあるから壊すとか、一体何に対して暴力を向けているのか。「日本」というレッテルでしかない空虚なものに暴力を向けているのであれば、実はその行為自体が虚しく空を切っているだけではないのか。


中国は確か50もの少数民族がいるそうだから、そのアイデンティティーの在り方も、中国という国家の中で一様でもないのだろう。民族というのは一応血のつながりだが、国家としての「中国」というのはそれを覆うレッテルでしかない。かつて(今も?)ユダヤ人が、ユダヤ人というだけで攻撃を受けたが、ユダヤ人というのはユダヤ教を信奉する人を指すから、血のつながる民族でさえない。いわば宗教のレッテルでしかないわけだ。国家や民族というレッテルに左右されて無意味な争いを続けている事実に、もっと人は気づくべきなのだろう。


日本人も中国人も、国家に帰属する以前に、何にも属さない人間であることに気づけば、何者でもない者同士一体何のために戦い合うのか、という言葉に行き着く。かつてこのようにかたった池田晶子さんは、きっと今回も同様のことを仰ったであろう。




戦場ジャーナリストの死

2012-09-11 07:21:51 | 時事
シリアで起きた、日本人の戦場ジャーナリストが殺された事件について、報道も一区切りついたのか、あまりメディアで関連ニュースを見ることも少なくなった。

当時の報道によると、シリア政府軍は外国人記者を標的にすると決定したといい、しかも残された映像についての報道によれば、政府軍の案内役らしき男性が「日本人だ!」と叫んだ途端に発砲されたそうだ。流れ弾とかではなく、まさに狙われて殺されたということだという。今年においてもシリアでの外国人ジャーナリストの死亡が相次いでいるそうだから、その危険度は半端ないものなのだろう。

シリア情勢について、もっとも無念に思うのは、国連が期待された役割を果たせなかったことだ。その原因は、安保理での大国の足並みが不揃いであることから発しているが、シリアに関する決議について拒否権を発動したロシアと中国について一方的に非難すればよいという話ではない。ただ、国連は平和のための機関であるものの、1国の内戦がエスカレートするまま止められない現状によって、所詮そんな程度でしかなかったと思わざるをえない。果たして人類は進歩しているのか。


国際政治について池田晶子さんは「他人事」のように語るが(「他人事の最たるもの-国際政治」『41歳からの哲学』)、一方で9.11テロ直後にアメリカに渡ろうとする友人夫婦の話を紹介しながら、次のようにも書いている。


「彼らにとっては、世界とは自分なのである。全人類が自分なのである。だから、そこで何かが動いている、何かが変わろうとしているなら、一緒に働き、一緒に変わってゆかざるを得ないのである。それで、そこにどうしても引かれてしまうのである。ジャーナリストの人々なども、悲愴な使命感によって、これと似たようなことを言うけれども、それとは違う。あの人々は、自分と世界とは別のものだとやはり思っているから、悲愴な使命感にもなるのだが、そも自分とは世界であるなら、そんなものはもちようがない。「自分が何かをする」という意識が、彼らにはもはやないのである。」(『ロゴスに訊け』「世界は神々の遊戯である」より)


紹介した文章の末尾には「自分に悪いことは他人にも悪いことだ、この当たり前にして不思議な事実に人々が気づくとき、世界と歴史は少しづつよくなるのではなかろうか。」と結ばれている。この当たり前のことを世界で共有するしか、人類の進歩はないのだろう。冒頭の戦場ジャーナリストは、戦地に住む市井の人々を取材することを信条としていたというから、悲壮な使命感だったのかどうかは別にして、「自分にとって悪いことは他人にとっても悪いこと」を共有することを担っていたとも言えるのではないだろうか。

『アダム・スミス』(中公新書)

2012-09-05 03:51:51 | 
大分以前に買っていたが、積ん読状態だった掲題の本を、最近読み終えた。帯を見ると、2008年にベストセラーとして注目されたようである。

アダム・スミスといえば『国富論』だが、この本では、まず『道徳感情論』という著作を取り上げている。題名通り、この著作は経済学的な内容ではなく、多分に哲学的だ。そしてこの本の解説も読み応えのある、非常に参考になる内容であった。

非常に印象的なのは、「公平な観察者」という概念だ。個人対個人の関係において、自分の行為について人がどういう感情を有するかを、人は公平な観察者の観点から判断するとする。確かに、自分の中にあたかも別人格を有しているように自問自答することは、経験的にはその通りかもしれない。その公平な観察者を形作るのは、周りとの折衝経験からであり、個人が所属する集団の中で形成されるとする。従って、同一の社会においては、共通した公平性を有するというのだ。


面白いのは、この公平な観察者という概念を国家間にも当てはめることだ。国家間においても同様の対応をしようとするのだが、国家間には共通の集団が存在しないから、公平な観察者が形成されにくいという。しかし、国家同士の関係においても公平な観察者の視点が形作られば、問題の適切な解決も導かれやすい。


まさに今、日本が抱える中国や韓国との領土問題は、まさに公平な観察者の視点から考えるべきだと、強く思った。もちろんそのためには、歴史的経緯を公平な観点から把握する必要がある。もし国際司法裁判所が裁くとすれば、公平な観察者の視点でなくてはならないだろうし、それ以前に各国家が公平な観察者の視点を合わせ持てるならば、国際司法裁判所は不要かもしれない。しかし、実際はそうはならないのだろう。国家はどこも今や、ナショナリズムとポピュリズムの嵐だ。

この本でもう一つ印象的だったのは、幸福を心の平静と捉えているところだ。昨今、幸福論が喧しいなか、シンプルで落ち着いた感じのアダム・スミスの考え方は好印象であった。




聖愚者

2012-08-29 01:56:32 | 時事
文藝春秋誌に掲載された芥川賞受賞作品「冥土めぐり」を読んだ。この小説は聖愚者をテーマにしているという。身分不相応なセレブ生活もどきにより借金を積み重ねる実家の家族に対し、働くことさえ出来なくなった知能の低い夫が、むしろ主人公の精神的な救いになるというストーリーだ。そもそもフィクションはあまり好んでは読まない方だし、文体もあまり好きではないが、意外に読みやすいスタイルなのか、スルスルと読み終えた。


知能の低い愚者とされる人が、むしろその正直さと真面目さゆえに成功する物語は、意外と世界に多いのかもしれない。映画ですぐに思い出すのが、「フォレスト・ガンプ」だ。愚者である方がむしろ成功するというのは、学歴が高く計算高くて狡猾なビジネスマンが成功するというような世間の常識の対するアンチテーゼなのだろうか。あるいは、何も考えない方が成功すると思う方が、現実の悩み事に翻弄される現代人の癒しになるのだろうか。


確かに現実に悩んでばかりであるならば、ノホホンと何も考えずに生きている方が幸せしれない。あるいは、池田晶子さんの言うとおり、悩むな、考えよ、というところだろう。

「円谷さんの死」

2012-08-19 00:06:00 | 時事
今月の日経新聞「私の履歴書」は、オリンピックの時期に合わせてかマラソン銀メダリストが執筆している。そして、昨日のテーマが「円谷さんの死」であった。


この自殺事件は、当時において衝撃的だっただろうし、今でもマスコミはメダルの期待で連日報道しているくらいだから、当時の国民の期待感はさらにものすごいものだったように想像する。東京で銅メダルになったあと、次のメキシコで期待されながら、故障して手術まで行い、結局周囲の期待に答えられないと悟って自殺してしまう。「疲れ切ってしまって走れません」という遺書の文言が、本当に痛ましい。


この事件は多くの書物になっているようだが、こちらは同じ時期にマラソンを走った、ある意味同僚であった人の文章として、短い紹介ながら無念さが胸にしみる。そして「私は円谷さんを救えたかもしれない人間の一人だったと思う。」と言わしめている。「そこまで自分を追い詰める必要はない」と言ってあげるべきだったと。


しかし想像するに、そう声かけたとしても容易に円谷氏は考えを変えないように思える。「君は健康で走れるから、そんなことが言えるんだ。僕の気持ちなんてわかりはしない。」と言われそうだ。所属先からも家族からも期待されて、自らの存在意義が走ることにしかないと思っている以上、走れないことは自らの存在意義を失うことだ。その考えを本人自身が変えられない限り、結果は変わらないのだろう。本人の考えを変えることは、容易なことではない。しかし、あくまで「考え」なのだから、変えられないわけではない。


自殺者の多い今の時代においても、変わらず考えるべきテーマではないか。



『続・悩む力』(集英社新書)

2012-08-12 07:22:44 | 
 姜尚中氏のベストセラーの続編『続・悩む力』を読んだ。4年前に読んだ『悩む力』と同じように、漱石とウェーバーを主軸に論じている。さらには、フランクルのいう「態度」にも触れられていて、前作と同様の好感触に思えたが、どうも結論的な部分が首肯できなかった。少し引用してみよう。

「結論を先取りすると、人生に何らかの意味を見出せるかどうかは、その人が心から信じられるものをもてるかどうかという一点にかかわってきます。
 「悪」に魅せられてそれに手を染めることも人生の意味だとは言いたくはありませんが、個人や集団に実害が及ばないなら、差し当たり何でもいいのです。恋人でも、友でも、子供でも、妻でも、神でも、仕事でも。
 というのも、何かを信じるということは、信じる対象に自分を投げ出すことであり、それを肯定して受け入れることだからです。それができたときにはじめて、自分のなかで起きていた堂々めぐりの輪のようなものがブツリと切れて、意味が発生してくるのです。」(P.145)


 ここで言っている、信じられるものをもつという行為の対象が「悪」であっても実害が及ばないならいい、というのはとても肯定できないであろう。「悪」と定義できるのであれば、それは害があることになるからだ。池田晶子さんに言わせれば、誰にとっても害がなかろうとも自分にとってそれは悪いことだ、と指摘することだろう。また、信じる対象以前に信じられている「自分」とは何か、鼻の頭を指すことなく説明してみよ、とここのところも池田さんにバッサリ斬られそうな部分だ。

 むしろ、この文章より前に漱石の言葉として紹介されている「己を忘るるべし」(P.114)の方が、納得できる謂いだ。現代においても当たり前のように唱えられている、「自分探し」ということの不毛さを指摘しているようではないか。