かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

街歩き白子(下)

2016-05-13 09:10:11 | 鈴鹿川流域の暮らし

   3、誓子句碑巡り

 

とくに俳句に関心があるわけでもなかった。

2000年ごろ、伊勢神宮前のおかげ横丁をぶらぶらしていたら、

誓子という看板が目に入った。何か展示館のようだ。

「これ、何だろう?」

好奇心で入ってみると、山口誓子という人の俳句が展示されていた。

よく分からなかったけど、句を読んでみて、何か印象に残る

ものがあった。

自註つきの「山口誓子集」という本まで買っていた。

 

三重県のあちこちに誓子の句碑があると聞いて、句碑を探しにいくことに

熱中したことがある。

 山口誓子は肋膜炎の療養の為に昭和16年から28年迄の12年間、

三重県の四日市市富田、天ヶ須賀海岸、そして鈴鹿市白子の鼓ヶ浦に

居住していた。

 

何年か前も、鈴鹿の白子海岸に誓子の旧居があると知って、見に行った。

堤防沿いの道を何度も行ったり来たりした。

家があると思い込んでいた。何回目かに、堤防の下、浜辺に

「誓子旧居跡」という立て札を見つけた。

今どき、浜辺の堤防の中に家が建っているなんて、ありえないよな、

と思った。

 

 

その日は、まっすぐ白子の海水浴場の入り口前にある舞子館に

行った。

ここに、誓子の句碑がある。



 一湾の潮しずもるきりぎりす         昭和24年  

  <誓子自註>伊勢湾の全体の潮がしずまりかえっていた。

  その海のほとりのくさむらに、きりぎりすが鳴いていた。

  大きな潮のしずまり、その近くでなくきりぎりすのかすかな声。

 

伊勢湾の海。その広さ、深さ、奥深さ。

身近には、きりぎりすが鳴く声がかすかに聞こえている。

誓子は戦時もここに暮らしていた。敗戦のあと、この海を眺めながら、

どんな感慨が去来していたのだろう。

 

舞子館から、子安観音寺のある寺家町に行く。

子安観音寺の駐車場に車をおいて、街歩きをした。

街のなかにいくつもお寺があり、それが町並みのなかにしっくり

溶け込んでいる。


 

 

西方寺の境内に誓子の句碑がある。

この句が好きだ。何度読んでも、なにか深い感興が湧いてくる。

 

 海に出て木枯帰るところなし     昭和19年作

  <誓子自注>木枯は、山から吹き下して、野を通り、海に出ると、

  行ったきりで再び日本へは帰って来ない。

  日本の木枯は日本の国籍を失ってしまうののだ。

 

この句について、ある人が書いている。

 「軍も遂に特攻隊や回天といった人の命を犠牲に攻撃をする手段を

とり始めた(特攻隊が始めて出撃したのは昭和十九年十月)。

優秀な若者達は行きの燃料しかない戦闘機に乗り、米艦隊に向かって

突っ込んだり、墜撃されたり、燃料切れでその命を散らしたのである」

誓子が、そういう実際を念頭において、作句したかどうかは、あくまで

推測に過ぎないという。

この句を読むたびに、そういう背景の重みが浮かんでくる。

今の日本が、またしても、そんな方向へ舵をとりはじめている。

西方寺の境内は、誰もいない。しばらく、鐘楼の石の階段に

腰掛けて、一服した。シーンと耳鳴りがするようだった。

 

 

 子安観音寺の山門には「あ」と「ん」の仁王さんがいる。

 


なつかしい。子どものころ、わが家のすぐのところに曹洞宗の小さな

お寺があった。山門に仁王さんがいて、そこは遊び場の一つになって

いた。

「あ」の意味も知らず、「ん」のことも分からなかったが、仁王像は、

おっかないけど、近しい遊び仲間のようだった。

あの表情をまじまじと眺めていたな、と思い出した。

 

子安観音寺の境内にも誓子の句碑がある。


 

 虹の環を以って地上のものかこむ       昭和25年

  <自註>虹の輪が半円を描いて懸かっている。

  その輪の下に地上の一切のものが包括されている。

  それを逆叙すれば、虹の輪で地上のものをとりかこむのだ。

 

ふだん自分の立ち居地そのままで、見えたものを捉えている。

そして、その見えたもの、見たものをそうだとしている。

じっと、虹を見上げていたら、こういう世界も浮かんでくるのだろうか。

 

    

    4、寺家路地歩き

 

寺家町は、昔ながらの街並みが残っている。

 

西方寺の外壁を歩いていたら、赤い実をつけた枝が道に少し

はみ出していた。


赤い実って、サクランボじゃないかな。

手を延ばしたら、摘むことができた。

一瞬、背後に誰かいないかな、という感じで、採って、口に入れて

みた。ほの甘い。(そんな表現があるんかな)。サクランボだ

種をどうしよう?

見ると、道に種がたくさん落ちている。

ああ、同じことをしている人たちがいるんだあ。

すこし、目立たない脇に捨てて、行こうとしたけど、いたずら心が

むくむくとして、もういちどサクランボを採った。

この感じ、この感じ。他人の庭の石榴やイチジクを採って、食べるとき

の感じ。見つかったら、どうしよう、でもやめられない。

 

6年前に来たとき、「銭湯」という文字がついている建物に出会って、

「なつかしいなあ」と思った。

実際は、もう止めているらしい。入り口脇に車が置いてあったので、

人は暮らしているのだろうと思った。

今回、その前を歩いたんだけど、6年前と同じ印象を受けた。

裏には煙突があった。

銭湯の姿がそのまま路地に残されてある。

 

子どものころ、商店街に住んでいた。

わが家の前が銭湯だった。

銭湯に行くときは、パンツ一枚で走っていけた。

裏には木切れ置き場があり、記憶では子どもたちの遊び場の一つ

だった。小学校1年生ぐらいまでだったと思う。裏から男湯でも

女湯でも、遊びの勢いで出入りできていた。よくぞ、追い払われなかった

もんだ。

ああ、銭湯はなつかしい。

いまの時代でも、わが家の風呂とは別に、こういうお風呂があっても

いいなあ。

スーパー銭湯というより、なんというか、もう少しこじんまりしたもの。

 

玄関脇に「考える人」のような人物像が目に入って、ギョッとした。

その人は花に囲まれて、何かを考えていた。

この家の人に、彫像づくりを勉強していた人がいるのだろうか?

 

細い路地に入る。

ブロック塀のところに、丹精に手入れされたツツジの花が見事だった。

 

板張りでつくってある外壁の家の横を歩く。

板には、なんという塗料かわからないけど、黒い塗料が塗ってある。

家の板の壁に沿って、歩いていくと、途中少し広い路地に出て、右に

曲がって、それからけっこう、それが続いた。

「わあ、大きなうちなんだあ」

何を基準にそう言っているのか、そんなことが出てきた。

「板で外壁の家を維持管理するのは、何かそうしたいという

ようなこだわりがいるだろうな」と、余計なことを思った。

 

路地から離れて、近くにある公園に行った。

家族連れでソフトボールやっていたり、草野球チームが練習して

いたりした。

5月の太陽の日差しはやさしい。

でも、歩いて身体がほっててきた。ベンチに座って、ぼんやりする。

公園の北の端に赤い半てんを着た十人以上の若い男女が何か

している。


じっと見ていると、踊りの練習をしているみたい。

そういえば、鈴鹿や津で、夏”よさこい祭り”というのがある。

この街にそんなに若者がいたんだっけ、とびっくりするほど、子どもや

若人が集まってきて、夢中で踊りを披露してくれる。

そのためなんだろうか?

もし、それに向けてなら、こんな地道な時間をみんなでともにしてるん

なあ、と新鮮だった。

 

この街歩きを始める前、いまの日本は気づかれないように戦時色に

染まり始めているという、頭のなかの世界が、まてまて、じぶんの

意識になくとも、日々、時々刻々、生きられている実際があるんだろう

と帰りながら思った。

               (おしまい)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿