鈴鹿市の広報に「大黒屋光太夫記念館特別展ーー井上靖
「おろしや国酔夢譚の世界」が10月24日からありますよ、
と紹介してあった。
鈴鹿に引っ越して来て、6年目、光太夫さんの名前は聞いて
いたし、白子港に行くとなにやら立派なモニュメントが天に
向かって、佇立ししてるのに出会う。井上靖さんの文学碑が
あることも知っている。
文学碑は読んでいる筈だけど、そこから何か受け取っている
ものはない。
光太夫さんの記念館があることは、知っていたけど、行って
みたいとも思っていたけど、足が向いていかなかった。
それが、何を思ったか、二度目の死に損ないの体験が影響
したか、「行ってみよう」と妻と次男坊に声かけた。
25日の夕方、次男坊の運転で出かける。
駐車場には、車が一台も無い。
「閉館してるかな」と思いきや、やってそうだ。
人っ子ひとりいない、記念館は不気味だったけど、ドアを
開けると、受付には一人、女の人がいた。
展示室には、靴は脱いで、スリッパに履き替えて、入った。
光太夫らが1783年1月、白子の浦を出港して、嵐に遭い、難破して
アリューシャン諸島のアムトチカ島に漂着した。そこで4年を過ごし、
そこから、カムチャッカ~オホーツク~イルクーツク~ペテルブルグ
に辿り着く。そのルートが年月入りで、地図の上に書かれてあった。
帰りも、同じルートをオホーツクまで戻り、そこから根室に上陸したの
だった。1792年5月と記されていた。
地図上では矢印の線で引かれている。見ている、こちらは、「そうか、
すごい旅をしたんだなあ」と少し、関心が向く。
実は、何年か前、本屋を散策していたら、文庫本で井上靖の「おろしや
夢酔譚」が目に入り、何そのとき、魔がさしたように新品を買っていた。
最初のほうだけ、読んでいまは本棚に眠っている。
特別展は井上靖の手書きの原稿が、物語の流れに沿って、展示して
あった。その一つひとつを読んで回った。
妻と次男は、早々と受付の前にある長椅子に座って、ぼくが終わるの
を待っているようだった。
最後まで、読んできて、「ふーっ、ちょっと疲れたなあ」
周りを見回す。椅子があったらなあ、と思った。ちょっぴり、感慨に
耽りたかった。
そんなに長いこと居たわけでなかった。
ちょっと、物足りない感じ。
「海に行ってみよう」
海岸は風がきつかった。身体には堪える感じだったので、早々に
引き上げた。
あとで、あの記念館、海が見えるように作られていたら、いいんじゃない
か、と思った。
もっと知りたいとうのが、ムラムラと起こってきた。
「おろしや夢酔譚」の最終章を、わが家に戻って、一気に読んだ。
江藤淳が、この本の解説を書いていて、それも読んだ。
<「いいか、みんな性根を据えて、俺の言うことを聞けよ。こんどは
人に葬式を出して貰うなど、あまいことは考えるな。死んだ奴は、
雪の上か凍土の上に棄てていく意外仕方ねえ。むごいようだが、
他のすべはねえ。人のことなど構ってみろ、自分の方が死んでしまう。
いいか、病気になろうが、凍傷になろうが、みとりっこなしにする」・・・>
江藤淳は、ここがこの小説の核をなす部分だといっている。
後で、特別展のための小冊子を見ていたら、光太夫が帰国したあと、
異国体験をしてきた光太夫らの消息が知られていなくて、”不遇”な
生涯という評価があったらしいけど、鈴鹿の光太夫ゆかりの寺院とか
から、新資料が発見され、故郷鈴鹿にもやって来て、世話になった人
との再会も果たせたとか。
小冊子には、そういう経緯が明るみに出るに合わせて、井上靖さんが
文学碑を推敲していく過程が紹介されている。
おそらく、最終の文学碑の文章。
漂流民は、光太夫の前のもロシア地域に5回、本人たちの意志では
なく、国という枠からはみ出した。その人たちは、帰国は適わなかった。
光太夫は、時代の背景や光太夫の資質も加わって、国からいったん
はみ出したが、再び戻った。それが、どういことだったか、いまの
ぼくにはわからない。関心はある。
その後のジョン万次郎との比較もあるようだけど、そのこともしらべたら
おもしろそうだな。
中東から多くの難民が国と言う枠からはみ出して、おおきなうねりに
なっている。
国という枠が先ずあるというより、まず、一人ひとりの人間がいる。
それが、実際に見える。
一人ひとりの艱難がどういう方向を目指しているか、時間があれば、
光太夫物語も、読んでみたいなあ。
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