かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

カレッジの宿題「学校生活から何が培われてきたか?」

2012-01-22 07:33:12 | サイエンズ研究所のある暮らし
 年のはじめに、じぶんの学校生活をふりかえる。
 サイエンズ研究所カレッジ。
 昨年10月から毎週一回二時間、10人のメンバーが寄ってくる。
 テーマ「育ちを科学する」
 12月までは、「家族構成・家庭環境」について、各自発表。
 今年に入って、「学校環境とわたし」
 27日に順番がまわってくる。
 
 (おもいついたこと、メモ)

 横浜の鶴見駅西口、豊岡商店街の通りを東に500メートル、
商店街に面している小学校。
 
 入学式、母に連れられて行った。30センチの竹製の
物差しをもらった。覚えている。
 はじめのころ、二部授業。
 午後の部の場合、遊びに夢中になっているとき、
時刻を知らせるサイレンかなんかが、鳴る。
「学校へ行くのかあ」と面倒な気持ち?
学校へは、「行くもんだ」となっていた。
「行かない」という気持ちは出て来なかった。

 教室のなかのことが場面としておもいだせない。
 勉強している場面がでてこない。
 父から聞いて、「これは他の子は知らないだろう」と
教室でとくとくと、しゃべったという記憶はある。
 放課後、掃除の時間、おちゃらけて掃除しなかった。
女の子から「しないんだったら、どっかへ行って」と
言われて、校庭に出たけど、遊び相手がいない。
さびしい気持ち。

 成績には、あまり関心がなかった。
 通信簿をもらうときはどきどきした。
 だいたい「ふつう」「ふつう」だった。
 だから、よくしようとはおもわなかった。

 音楽の先生は若い女の先生だった。
 わざと調子はずれに歌って、ふざけていた。
「あなたは、授業しなくていい」と宣告されて、校庭に
出た。周りはだれもいない。しんとしていた。

 喧嘩相手がいた。互角だった。
 便所の裏で、何回も組あった。決着がつかなかった。
 相手をつねに意識していた。弱みを隠していた。

 高学年、若い男先生が担任になった。新任だったとおもう。
 嬉しい気持ちで迎えた。
 この先生「おまえなあ、喧嘩するなら放課後にやれ」と
言った。いつも、なにかやらかしていたのかも。おぼえていない。
「喧嘩するな」と聞こえてこなかった。子どもごころに
「なんかおもしろい」とおもった。
 放課後、上級生の門のところで喧嘩したことがある。
 やっつけられて、それでも足にしがみついていた場面が
出てくる。「放課後にやるとおもって、やるのは、ピンとこない」
みたいなことおもったかな?

 先生の名前、憶えている。内田先生。
 家に友達と行ったことことがある。独身、小さい部屋だった。
何を話したおぼえていない。親しい気持ちがあったとおもう。
 そのうち、結婚した。奥さんは、若くてきれいな人だなと
おもった。

 小5か小6のとき、自作で友達と漫才をした。
みんなを笑わせるのがすきだったかも。
 友達は秀才だった。
 中学は私立に行き、慶応に入った。
 なんとなく一匹オオカミ。秀才たちとつきあっていた?
 
 「おれは公立中学へ、もちろん行く」とかたく決めていた。
家のことかんがえたら、それ以外の選択肢はないと・・・

 兄は秀才だった。
 「おまえの兄さんは・・」となんとなく言われていたように
おぼえている。じぶんでも、意識していた。

 中学では、バスケットを始めた。
 野球に、なんとなく劣等感があった。やりたいとおもっていたが、
きっかけがなかった。じぶんから、「やりたーい!」と
声も出さなかった。

 3年間、熱心な先輩の指導で、神奈川県で2位までいった。
 根性を培った。
 仲間と、つらくても、はげましあってやった。
 仲間とやる楽しさを味わった。

 教室でどうだったか、勉強の場面は、やはりあまり
覚えていない。
 一年のときの担任が、こわもての男先生だった。
 教室の入り口の戸に黒板拭きをはさんでおいた。
 机と机の間が狭い。男先生がその机の間を歩いて、
ぼくらの傍に来る。帰ったら、ズボンの両側に白墨が
ついている。
 「だれだ、こんなことするやつは?」
 もちろん、廊下に立たされる。

 試験の前だけ、勉強した。
 夜、遅くまで勉強した。机に向かっている場面が出てくる。
 試験の前に勉強したら、上位6位以内に入るという
ことを知った。
 そのころは、全員かどうか覚えていないが、試験の成績を
廊下に貼り出していた。
 「お前の兄貴は・・」と言われなくてすむ。

 中2ぐらいからか、担任は女先生だった。
 やくざがらみの生徒が何人かいて、学校で手を焼いていた。
 その生徒は、この女先生の前では、やけに素直だった。
 「どんな子も、こころのなかは、きれいなのよ」
 女先生は、そんな話をいつも聞かせてくれた。
 
 級長していたかな。
 長欠の生徒の家を訪ねたりした。
 飲み屋で働いている女の子が何人かいた。
 結構、訪ねていった。暗い部屋に女の子はいた。
 ぼーっと、そんなイメージが出てくる。

中3のころ、非常勤の国語の先生と出会った。
 授業の教材をガリ版でつくって、毎回もってきた。
 先生の人柄が、そのまま伝わってきたのかな。
 気に入ったし、仲よくなった。
 まだ若い女先生で、明るくて、情熱があり、知的に
感じた。
 旦那さんは、曹洞宗のお寺の住職だった。
 中学卒後も、中学の仲間とお寺に行って、先生と
いしょに読書会などした。

 中学のときの、二人の女先生には、ずいぶん世話になった。
 おふくろにはない、知的な面での欲求を満たしてもらった。

 高校2年の12月ごろ、大学進学を父親から「金がないのでだめだ」
と言われた。先生のところに、愚痴を言いに行った。そうしたら、
二人の女先生は、”中学校の管理人”というアルバイトを
見つけてくれた。入学金をためることができた。

 お寺の先生には、その後も、大学をやめるまで、いろいろの
相談にのってもらった。
 先生の家から帰るときは、「またやれるぞ」となっていた。

 高校のとき、いちばん印象にのこっていること。
 国語の女先生に、作文の添削に書いてもらったこと。
 その作文が、一昨年の引っ越しのとき見つかった。
 こう書いてあった。
「狭いかたよった感じがつよい。
文章はうまい。批判的な点も若さがあってよい。
だが、独断的に相手をきめてしまうことについて、問題がある。
あなたの見方のような考え方の人たちだけではないかも
知れない。そのあたりの弾力性がほしいようにおもうのだが・・」

 そのときは、「ガーン」という感じだったか。
 その後、それについて、もっと考えてみるということは
なかったとおもう。
 それが、じぶんのなかでどうなっているか。
 いま、まじめに見始めている感じ?






 







 

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