かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

意志っていうこと、どう捉えてる?

2013-02-01 08:50:10 | サイエンズ研究所のある暮らし

 サイエンズ研究所カレッジコース「自発的自由意志で営まれるコミュニテイ」

 このコースで、メンバーとともに、じぶんのなかを見ながら、昨年から

検討してきた。


 「意志とは、どういうものと捉えているか」

 これについて、一人ひとり、中間レポートをしてきた。

 録音で参加している、いわば今は通信制の参加だが、みんなの発表も

聞きながら、中間レポート。

 

 意志といったら、こころのはたらきのなかのことかな?


 こころのはたらきといったら、脳にかかわって、人の感情・気持ち

気分などを裾野にし、見たり聞いたり,カラダの反応などで経験を

積み上げ、記憶になっているものすべて。

 意志は、その人の積み上げてもの(記憶)を材料にして、いろいろな環境・

状況にかかわって、行いに表せるまでに、はっきりとしたこころの

状態になること。

 

 意志と行動は別。意志としてはっきりしても、行動しないときもある。

 ふりかえってみると、「やろうとする」と「やる」の異いが意識のなかで

はっきりしていなかった。

 「やれないか?」と聞かれると、無意識のうちに「やれるか、やれないか」

をかんがえる。苦し紛れに「やれないこともないけど・・・」とか反応する。

 「やれないか」であれ、「やれ」という言葉であれ、意志と行動は別。

意志は、じぶんのこころのなかのこと。だれかに、やらされたり、強いられたり

はできない。反対に、他人にたいしても、させたり、強いたりできない。

 「じぶんは、どうしたいのか?」

 まず、ここが問われている。そのとき、じぶんのなかをみたら、いろいろな

気持ちがあるのではないか。

 「やれないことはないけど、やりたくない」とか、「もう、寝たい」とか。

 じぶんの意志をつくっていくとき、こんなぶくぶくとわいてくる気持ちを

取り上げるとか、ほっておくかどうかは、そのときの状況とか個人差はある

とおもうが、意志の自由さ、身軽さというところからみたら、かんがえること

がありそうだ。

 「やらねば・・・」という無意識のこころのなかの縛りが、こころのなかのこと

と行動のことを、混線させているのか。



 鈴木英二さんの発表を録音で聞いた。

 英二さんが書いた、彼の人生の図表も見た。とても彼らしい。



 「自分の気持ちをおしころして半世紀」みたいな表現にはつくづく

共感する。しながら、言い切ってしまったら、なんか違う気もするが・・



 英二さんの発表を聞きながら、ずいぶん自由に気ままにやってきた、

みたいにおもっている感じがあったが、じぶんも次男でお下がりが

あるときなど、ある種の「どうせ、次男だから」みたいな気持ちが

あったな。

 そんな気分、「ほんとはどうしたいのか?」をじぶんのなかで

見ることなく、ほこりが順々に積もっていくように、なんとなくの

意志で暮らしてきたような・・・じぶんのこころのなかのことに

はちがいないが・・・



 小学校へは、なぜ行ったのか? 

 どんなことおもったか、おぼえていない。「行くもんだ」と

おもっていたとしかおもえない。

 そのころは、午前の部と午後の部があって、午後の部は

遊んでいるのをやめなければならないので、やだった。



 親をはじめ、周囲社会、環境、社会状況、おそらくそれらすべて、

起きていることにかかわって、じぶんなりにこころのなかに影響を

うけ、それをベースにやってきたのだろう。

 いやいやであれ、なんとなくであれ、それがじぶんのなかで「そうしよう」

といいう意志になって、それでやってきた、といえるのかな。



 65歳を過ぎて、いま「自発的自由意志」をかんがえはじめているのか?

 じぶんの、ありのままの気持ちをあらわしてもいいのかあ・・・

 じぶんのありのままの気持ちを、もしほかの人がうけっとってくれたら、

その人とじぶんはどういうことになっていくのか?

 そういう、無理のないこころのはたらき、無理がなさそうに感じる、

そのへんをみていきたい。





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