笑顔で筋肉弛緩

机横の荷物の山から出てきたのは、昨日の折り本だけではなかった。姿だけ描いた50枚ちかいハガキも出てきた。そのまま年越しさせては申し訳ないので色を入れてハンコを押して乾かした。全員赤いアブチャンをしたお地蔵様が揃うと、見ているだけで愉快である。午後から行われるご詠歌の先生たちの会議は、東京ドームギャラリーで開催されている「バッドアート美術館展」でおおいに笑って、顔の筋肉をゆるめてから臨む所存。 

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肩身

今日も今日とて私はサンデー毎日。一般の方ならば日曜日にやるようなお礼状書きやら机周りの片づけなぞを午前中にしている。しっかり者の家内はすでに数日前からお寺と庫裏の大掃除を徐々に始めている。用意周到良妻賢母だ。机周りを整理していたら本やら紙の間から未完成の『言いたい放題地蔵』の折り本が出てきた。発掘した気分である。ぐはは。まだ空白だった6枚を描いて15冊目を完成させた。午後は原稿を書けるだけ書いて、夕方からの大学のご詠歌の授業(お稽古?)に出発である。つまり今日も、私は家内がやっている掃除の手伝いはしないということで、ますます肩身が狭くニャル。むはは。

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年末年始の読書の準備

今夜は今月に入って8回目の忘年会。あと2回だからいいペース(否、ハイペース)かもしれない。むはは。俳優の茶風林さん主催の「怪(あやか)し会」改め「酒林堂」の忘年会だ。私と副住職、そして次男夫婦が討ち入って、俳優、声優、脚本家、プロデューサーたちとヘベのレケになる所存(4人分の参加費は、酒肴料を含めて、当然私が出す。出さないと威張っていられないからである。むはは)。新宿まで電車に乗るのも、先週年末年始で読もうと思って買った本があるので楽しみである。

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駅のアイスクリーム自販機

駅にあるアイスクリームの自動販売機。買う人を見たことがないし、とけてしまうからこの販売機の近くで食べるはずだが、食べている(なめている)人も見たことがない。だったら、どうしてこれが駅にあるのか・・・私の積年の疑問だったが、その謎が昨日氷解した。「名取さん、あれは高校生が学校帰りに食べるんですよ」「食べるって、電車の中で?」「そうです」「だって、車内でアイスを食べている学生なんて、見たことないよ」「それは名取さんが高校生の帰宅時間に電車に乗っていないからです。あれ、美味しいんですよ」。なるほど、言われてみれば、この自販機がある駅のそばには必ず高校がある。生活時間帯が異なると、私などが知り得ない暮らし方をしている人がいるものだと感心した。

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くもひとつない

雲一つない青空の今朝の東京。今日は30代のお坊さんたちへの布教の授業。私が担当するのは「仏教語の伝え方」。坊主だから仏教語の意味はなんとなくわかっている。しかし、それらの言葉を自分で日常のレベルまで落としこまないと、分かりやすく伝えることはできない。たとえば、煩悩(ぼんのう)を欲望のことだと思っている人は少なくない。『大辞林』では「人間の身心の苦しみを生み出す精神の働き」と出てくる。これじゃ、よくわからないし、ちっとも心に響いてこない。だから私は、「煩悩は心を穏やかにさせない欲のこと。欲があっても心が穏やかならば煩悩じゃない」と説明している。誰かを愛して、心が穏やかならば煩悩ではない。しかし、自分は愛しているのに相手が愛してくれないとか、誰かに取られるのが心配だなど、心が穏やかにならないなら、それは煩悩だ。心おだやかな境地に憧れる人ならば、そんな煩悩は処理しないとマズイことになる--そんな話を3時間しようと思っている。ちなみに、この文章の冒頭「くもひとつない」を変換したら最初に出たのは「苦も一つない」だった。苦が一つもなければ、雲一つない青空のような心でいられるだろう。その意味で、かなり意味深な変換だとニヤついた。パソコンの回路の中に仏さまでも隠れているのかもしれないと思った。ぐへへ。

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最初に気づく感性

午前中に原稿を一本半書いて、午後は実家のご詠歌へ。練習する部屋に入ったとたん、目に入ったのは中庭のモミジの葉の緑と黄色と赤のコントラスト。「うわぁ、まるで京都のお寺の紅葉みたいですね」と言ったら、参加者が「あら、ほんとだわ」だって。あはは。私より10分以上前に部屋に入っていたはずなのに気づかなかったらしい。こうしたことは、誰よりも最初に気づく感性を持っていたいと思う。誰かに言われてから「へぇ、ほんとだ」と気づくようではダメなのだ。何かと気ぜわしい年の瀬だが、楽しく競争して、気づきの一番乗りを目指したいと思った(写真はイメージです)。

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来年の守り本尊?

一カ月ほど前に「来年はイノシシ年ですから、阿弥陀さまの年ですね」と言われて戸惑った。俗に干支の守り本尊と呼ばれるものは、守護霊的な、その人の守り本尊であって、その年の本尊ではないという思いが私にはあったからだ。しかし、そんな考え方もあるのかせれしれないと思って、今年最後の「写仏の庭」のお手本は、難波先生がかつて描いてくださった来年の守り本尊という説もある阿弥陀さまを三尊形式にした下絵にした。ぐはは。
ちなみに、生まれ年の守り本尊(調べてもどこにも根拠はないので、ロマンとして考えたほうがいいかもしれません)は以下である。
子(千手観音菩薩): 丑・寅(虚空像菩薩):卯(文殊菩薩):辰・巳(普賢菩薩):午(勢至菩薩):未・申(大日如来):酉(不動明王):戌・猪(阿弥陀如来)。

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段ボールは餌のようなものである

住職室で原稿を書いていると、部屋の外から家内が「はい、あなたの好きな段ボールよ」と、まるで犬に餌を与えるような言い方をしたので苦笑して廊下へ出た。見ると、つぶされていない箱がどっさり置かれていた。たしかに目下の所、私は段ボールは好きなので裁断まではした。しかし、いくら好きな餌でもこんなには食べられない、描いていられないと思った。一昨日に裁断した分を含めてゆうに200枚以上ある。今日は資源ゴミの日なので、膨大な量の段ボールの切れ端を箱に詰めて出した(その写真のほうがインパクトがあったと思うのですが、もう収集されてしまったので写真を撮れませんでした)。清掃局の人は「このゴミを出した人は段ボール用のシュレッダーを持っているのだろうか」と訝(いぶか)しがったに違いない。あはは。

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頬ずりの季節

全国公演をしている春夏秋冬。東京公演では冬が出番を忘れていて、西の空にオリオン座が登場するに及んで、ようやく自分の出番に気づいたらしい。朝や夕方に30分ほど外にいると頬ペタが冷たくなる。外から帰ってきて家の中にいる人に「ほら、こんなに冷たいんだよ」と頬ずりをして「やめてよ!」などとイチャイチャできる、いい季節になったと思う。ぐはは(写真はネット上から拝借しました)。

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ハンソク地蔵

『心がすっきり かるくなる 般若心経』を出してくれている永岡書店の編集者のKさんから「販促用のお地蔵さまのポップを書いて!」というお願いがあった。日本酒ソムリエでもあるKさんとは年に何度が美味しいお酒を一緒に飲んでいる仲だから「イヤだ」なんて言ったら、販促ではなく反則である。ぎゃはは。写真は、次の本の原稿が一本書けたので、とりあえず、お地蔵さまと書名を書いて乾かしている図である。あとは私の好きな言葉を添えようと思う。かの会社の営業の方が「カラーコピーでなく、本物だからいいのだ」と、こちらがゾクゾクするようなことを言ってくださったらしい。これらのお地蔵さまが、全国のどこの書店に巡錫(じゅんしゃく:錫杖を持って布教すること)されるか楽しみである。書店で見かけて「このポップ、欲しいんですけど」と店員さんに言うと、くれるかもしれません。あはは。

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