平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
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草津の湊
京都市
/
2007-11-18
草津の湊は、かつて鴨川と桂川の合流点にあった船着場でした。
草津とは下鳥羽の古名で、中世には
木津・今津ともいい、
京都から西国へ行く人々が川舟に乗船する地で
した。
川舟は大物浦(尼崎)で海船に乗り換えさらに西へと向かいました。
琵琶湖から流れ出た水は瀬田川・宇治川そして木津川・桂川・
鴨川と
合流し、
淀川と
名をかえて大阪湾へ注いでいます。
桂川と鴨川の合流点の南にあるのが羽束師橋(はづかしばし)です。
その付近を古くは草津の湊と称しました。
京都市伏見区横大路草津町
保元の乱に敗れ讃岐の国に流された崇徳上皇や厳島御幸の高倉上皇、
四国配流の際の法然上人、いずれも草津の湊から乗船しています。
またこの湊は、高野山・熊野・四天王寺・
柳谷観音へ参詣する人々が乗船する地でもありました。
美福門院隠れさせ給ひける御葬送の御供に草津といふ所より舟にて漕ぎ出でける。
曙の空の景色、浪の音、折から物悲しくて読み侍りける。
♪ 朝ぼらけ漕ぎ行く跡に消ゆる泡の 哀れ誠にうき世なりけり 藤原隆信朝臣
(新拾遺集、巻十、哀傷歌)
羽束師橋の東詰より約100メートル南へ行った堤防上には、
江戸時代の賑わいを物語る
魚市場の跡をしめす石碑がたっています。
魚市場は、この辺から南の横大路小学校付近の川畔に建っていたと伝えています。
京都市伏見区横大路草津町(羽束師橋東詰南)
近世には、草津湊は大阪から淀川を遡って運ばれた物資の陸揚げ地として栄え、
川畔には食料品の問屋が軒を並べ、瀬戸内海でとれた鮮魚などを京へ運んだ
運搬人の集合場所となり、生魚は籠に入れて担ぎ競って鳥羽街道を駆け上りました。
『参考資料』
東秀三「淀川」編集工房ノア 「淀川往来」 向陽書房 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛南)駿々堂
竹村俊則「鴨川周辺の史跡を歩く」京都新聞社
コメント (
4
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コメント
江戸時代は三十石舟で天満から伏見まで?
(
yukariko
)
2007-11-19 10:36:29
江戸の終わり頃の小説で京と大坂を行き来するのに三十石舟で天満から伏見(寺田屋前の浜)までという話が載っているので、後は徒歩か馬ぐらいで京に入ったと勝手に思っていました。
でも芭蕉の遺骸を膳所の「義仲寺」に運んだのなら草津湊もずっと機能していたのですね。
また一つ勉強できました。ありがとうございます。
三十石船は伏見船場ですね!
(
sakura
)
2007-11-19 17:52:57
宇治川の支流に設けられた伏見の船着場、
この船着場に面して立ち並ぶ旅籠屋の一つが
「寺田屋」ですね。
伏見城の築城に伴って水上、陸上交通の要地に
なったようで、江戸時代になると
こちらの船着場のほうが賑わったようです。
「30石船」は八軒屋
(京橋、蓬莱橋、今橋、天満)伏見船着場から
発着していました。
伏見船場も明治以降陸運の発達によって
衰微し川幅も埋め立てにより狭くなりました。
草津湊も明治十年の鉄道開通により
湊はさびれましたが、
明治末まで鳥羽でとれる水菜や慈姑を
天満の青物市場まで
積み出していたそうです。
タイトルは草津湊・淀川にした方がいいですね。
ご指摘ありがとうございました。
草津湊
(
H.o
)
2017-07-10 23:04:26
羽束師橋(草津湊跡)・魚魂碑のある場所(写真)は下鳥羽ではなく「横大路草津町」にあります。
ご指摘ありがとうございました
(
sakura
)
2017-07-11 10:24:05
H.o様
それぞれの写真にその所在地を書き入れると分かりやすいですね。
早速、写真の下に記入しておきました。ありがとうございました。
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でも芭蕉の遺骸を膳所の「義仲寺」に運んだのなら草津湊もずっと機能していたのですね。
また一つ勉強できました。ありがとうございます。
この船着場に面して立ち並ぶ旅籠屋の一つが
「寺田屋」ですね。
伏見城の築城に伴って水上、陸上交通の要地に
なったようで、江戸時代になると
こちらの船着場のほうが賑わったようです。
「30石船」は八軒屋
(京橋、蓬莱橋、今橋、天満)伏見船着場から
発着していました。
伏見船場も明治以降陸運の発達によって
衰微し川幅も埋め立てにより狭くなりました。
草津湊も明治十年の鉄道開通により
湊はさびれましたが、
明治末まで鳥羽でとれる水菜や慈姑を
天満の青物市場まで
積み出していたそうです。
タイトルは草津湊・淀川にした方がいいですね。
ご指摘ありがとうございました。
それぞれの写真にその所在地を書き入れると分かりやすいですね。
早速、写真の下に記入しておきました。ありがとうございました。