木曽義仲の里をあとにJR「宮ノ越」駅から中津川へ向かう電車で一駅、
「原野」駅で下りると義仲を養育した中原兼遠の菩提寺林昌寺や
中原兼遠館跡、手習天神など、遠い昔を偲ばせる史跡が点在しています。
中原兼遠は『林昌寺古文書』によれば、但馬国城崎出身とされ、
掃部頭中原広秀三男と記されていますが、
一説には木曽庄司中原兼経の三男ともいわれています。
また東山道を中心とする交通輸送業者として
富裕な財をなした人物であるとか、また木曽北部一帯は当時
宗像氏の大吉祖(おおぎそ)荘の荘園であったことから、
この荘園の荘官であったとも推測されていますが、詳細は不明です。
『吾妻鏡』には、兼遠は義仲の乳母の夫であり、
中三(ちゅうさん)権守と号すと記されています。
中三とは中原家の三男の通称で、権守に任命された木曽地方に
勢力をもつ人物だったようです。兼遠の子には、
木曽義仲四天王で知られる樋口次郎兼光・今井四郎兼平があり、
また義仲の愛妾として知られている巴も兼遠の娘とされています。
中原兼遠を頼って木曽に逃れて来た駒王丸(義仲)は、
「力は人に優れて強く、心も並びなく剛の者」に成長しました。
文武両道を教え、義仲の旗挙を楽しみに育てた兼遠は
佐久の根井行親の一族など信濃国中の豪族と組んで地盤を固め、
我が子を従者につけ義仲のうしろ楯となりました。
兼遠の子らは、義仲と乳母子の間柄で幼いころから一緒に生活し、
義仲の挙兵とともに忠実な郎党として
様々な合戦に参加して目ざましい働きをしています。
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JR原野駅から林昌寺へ
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国道19号線沿いに法泉山林昌寺が建っています。
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法泉山林昌寺
義仲の挙兵を見とどけると兼遠は、根井行親に義仲の後見を頼み、
出家して円光と名乗り、翌年に亡くなったと伝えられています。
中原兼遠開基の林昌寺の山門を入ると、
境内右手の山の中腹に兼遠の墓所があります。
その墓碑の側面には寄進者の名前とともに
昭和57年「800年遠忌記念」寄進と刻まれています。
『朝日将軍木曽義仲』によると、山吹姫が義仲の妻だったという
言い伝えが林昌寺にはあると記されています。
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中原兼遠の墓所
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墓所から林昌寺、木曽谷を望む
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旧中山道沿いに建つ手習い天神
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狭くて急な石段です
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手習天神 木曽郡木曽福島町新開上田
林昌寺を出て国道19号線を木曽福島方面に進み、
正沢川を渡った栗本信号から旧中山道に入り天神橋を
渡ると手習天神の赤い鳥居が見えてきます。
兼遠が義仲の学問のために勧請、義仲がここで
手習いをしたことから手習天神と呼ばれています。
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中原兼遠屋敷跡 木曽郡木曽福島町新開上田
手習天神手前、栗本信号から旧中山道に入った辺のカーブから
木曽福島へ向かって右(JR中央線方向)へ坂道を下ります。
線路を越えた河岸段丘の畑一帯が駒王丸を匿い13歳で
元服するまで養育した中原兼遠の館跡です。
畑の中に説明板とともに「義仲元服の松」と呼ばれる一本の松があり、
左手の竹林の中に「兼遠塚」と呼ばれる小さな碑があります。
説明板には屋敷跡は「木曽川と正沢川・天神川に囲まれた
上田の地、南北150m、東西約600mに及ぶ河岸段丘上の
自然の城塞をなす要害の地である。」と書かれています。
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JR中央線の線路沿いに建つ邸跡の駒札
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畑一帯が兼遠の邸跡です
駒王丸はこの邸で樋口兼光や今井兼平、巴とともに成長していきました
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屋敷跡の説明板と義仲元服の松
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元服の松の背後から
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屋敷跡左手、田んぼの中の竹林の中に中原兼遠の塚があります
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「木曽中三権守殿塚」と彫られています
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原野駅への途中、木立の合間から木曽駒ヶ岳が見え隠れします
『源平盛衰記・木曽謀反附兼遠起請の事』によると、
木曽義仲の謀反はやがて平家の知るところとなり、驚いた平家は
中原兼遠を都に呼出し、「義仲をからめ捕って差しださなければ、
汝の首をはねる。」と平宗盛は兼遠に厳命した。「義仲謀反の
ことはゆめゆめ虚言です。人の讒言でありましょう。但しご命令を
受けた上は暇をいただいて国に戻り義仲を捕らえて参りましょう。」と
返答すると宗盛は重ねて「暇がほしければ義仲を捕らえるとの
起請文を書いて提出するか、子息や家人に申しつけて義仲を
捕らえて来れば国に帰してやる。」というのでやむなく兼遠は義仲を
捕らえて連れてくる。という偽りの起請文を書いて木曽に戻り、
義仲を根井行親に託した。行親は信濃国、隣国に策略を廻らして
軍兵を木曽の山下に集めたところ、義仲の父義賢のよしみで
馳せ参じた上野国の武士や足利の一族以下、皆木曽義仲に
従って平家を滅ぼそうと騒ぎ立てた。とあります。
『アクセス』
「林昌寺」長野県木曾郡木曽町日義原野
JR中央線「原野」駅から約400m国道19号線に面して建っています。
『参考資料』
「長野県の歴史散歩」山川出版社 細川涼一「平家物語の女たち」講談社
現代語訳「吾妻鏡」吉川弘文館 「新定源平盛衰記」(3)新人物往来社
「木曽義仲のすべて」新人物往来社 「朝日将軍木曽義仲」日義村役場
田屋久雄「木曽義仲」アルファーゼネレーション
中原兼遠も乳母を頼ってきた駒王丸に乳兄弟の自分の子を忠実な郎党として付き従わせ、智勇兼ね備えた武将に育てあげて、その後ろ盾として信濃の国の一大勢力として京に登るのを夢見たのでしょうね。
義仲の挙兵をその目で見て翌年亡くなったなら、源氏が合い争う所までは知らずに済んだかしら?と思いました。
巴は途中までですが、樋口兼光・今井兼平は最後まで義仲に従ったのでしょうね。
実の弟でさえ次々に殺してゆく頼朝の権力志向なやり方は、同じ源氏なればこそなお、随所での義仲にたいする容赦ない仕打ちで、従った一族郎党にすればひどい仕打ちと写った事でしょう。
朝日将軍とうたわれた義仲の栄枯盛衰も物語の中の華でしょうけれど。
都を離れていて急を聞いて引き返すも間に合いませんでした。
以仁王の令旨を義仲に伝えた源行家はやがて義仲のもとに身をよせ共に戦いますが、
平家物語の中では常に敗軍の将として描かれています。
平家一門を都から追い落とした義仲は行家とともに上洛しますが、
義仲が西国に下向すると行家は後白河院に義仲の悪口を繰り返し、
義仲とは不和となります。長野城で討ちもらした行家を追って
樋口兼光は河内長野から紀伊国名草への途中、都に戦あり。と聞き
急ぎ淀まで引き返して来た時、今井兼平の下人に行きあい、
義仲は討たれ、今井兼平が自害したことを知りました。
きちんとしたサイトでありがたいです。写真も臨場感があり、絶対行ってみたくなりました。
ぜひ一度お参りなさってください。
名古屋から中央線で木曽路に入ると山あいをぬうように走る
列車の窓から見え隠れする色鮮やかな紅葉を印象深く思い出します。