西脇市の長明寺周辺は「頼政公ゆかりの里」として整備され、
和歌の名手としても知られた頼政を偲ぶ歌碑の路や
頼政が使ったという矢竹が残っています。
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源頼政(1104~1180)は歌人としても知られる仲政(正)の子で、
酒呑童子退治で武名を馳せた頼光の流れを汲む摂津源氏の武将です。
保元の乱では、後白河天皇方に与して勝利を得、平治の乱では初め
同族の源義朝の陣営に加わりましたが、機を見て平清盛に味方して
勝利に貢献しました。以後は二条・六条・高倉天皇に仕え、
源氏として唯一人六波羅政権下で生きのびることになります。
武人でありながら、優れた歌人でもあった頼政の和歌は、
『勅撰和歌集』や『源三位頼政集』に多く残っています。
以仁王の平家打倒の挙兵計画は露見し、宇治橋の戦いで
頼政は敗死しましたが、この事件が源平争乱の幕開けとなりました。
以仁王の令旨を受けた源頼朝・木曽義仲は、まもなく伊豆・木曽で挙兵し、
頼朝が鎌倉幕府を開き中世の到来を告げました。
頼政はその口火を切る立役者となったのです。
頼政は77歳で自害し、その介錯を渡辺長七唱(ちょうしちとなう)が務め、
首を石にくくりつけ宇治川の深みに沈めました。
当時、唱は摂津国渡辺(現、大阪市中央区八軒屋付近)を本拠地とした
渡辺党の代表者で、すでに出家した身でした。
渡辺党は平安時代末期より摂津渡辺を本拠地とした武士団で、
渡辺氏(嵯峨源氏系)と遠藤氏(藤原氏系)の2つの家系がありました。
渡辺氏は、渡辺番(つがう)、渡辺緩(ゆるう)などの一字の名を用い
「渡辺一文字の輩(ともがら)」とよばれています。
この一族は源頼光の四天王の一人渡辺綱(つな)を祖とし、
代々摂津源氏に仕え頼政軍の中心的戦力として、保元・平治の乱を戦い、
宇治川合戦にも平氏の大軍に対して頼政以下、
省(はぶく)・授(さずく)・競(きおう)らが勇猛果敢に戦いました。
遠藤氏は渡辺氏と姻戚関係を結びながら渡辺党を構成し、
普通に二字名を名のっています。源頼朝と非常に密接な
関係をもった遠藤盛遠(文覚)が知られています。
源姓渡辺、遠藤姓渡辺両氏は伝統的に弓矢の名手の家柄であったため、
メンバーの多くが渡辺に基盤をもちながら、一方では滝口として
宮中の滝口近くで宿直番(とのいばん)として天皇に仕えました。
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本堂の向かって左に建つ「鵺退治の由来」の駒札と歌碑。
♪深山木の その梢とも 見えざりし
桜は花に あらはれにけり 源三位頼政公
頼政祭第三十回記念 平成二十一年四月吉日
頼政祭実行委員会 重春まちづくり協議会建立
西脇市長 来住壽一書
(深山木のなかにあって見えなかった桜の梢であるが、
春がおとずれて花を咲かせ、はじめて桜とわかったことだ。)
近藤師高(もろたか)・師経(もろつね)兄弟
(後白河院の近臣西光の息)は、加賀国(石川県)の国司と目代でした。
この兄弟が延暦寺を総本山とする白山の鵜川(うがわ)寺の
堂宇を焼き討ちしたことをきっかけにして、怒った比叡山の
大衆(だいしゅ)が日吉(ひえ)社の神輿を担いで入京し、
頼政軍と対峙した時、三塔一の口利きとして知られた老僧が進みでました。
頼政卿は「深山木のその梢とも見えざりし… 」の和歌を詠んで
近衛天皇の御感(ぎょかん)にあずかったと承っている。
それほど風雅のたしなみのある人にどうして恥辱を与えられようか。
引き返そう。と提議したところ、大衆はもっともだと賛成した。という
逸話があります。(『平家物語・巻1・神輿振(みこしぶり)』)
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本堂裏手の坂を上り、石段を上がったところに頼政の墓所があります。
「源三位頼政公墓所」と刻まれた碑。
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石段傍に歌碑が建っています。
源三位頼政公辞世句 ♪埋もれ木の 花さくこともなかりしに
みのなるはてぞ 哀れなりける 榎倉香邨筆
(わが生涯は埋れ木のようで、花の咲くようなこともなかったが、
その最後もまたいたましいものである。)
急所の左の膝頭を射られて平等院に退いた頼政は、
渡辺長七唱(となう)を呼び寄せ「わが首をうて」と命じました。
しかし唱は主の首を生きながらうつことの悲しさに、
「とてもこの身につとまるとも思えません。ご自害なさったなら、
そのあとでお首を頂戴いたしましょう。」 と言うので西に向かって手を合わせ、
声高く十度念仏を唱えて最後の歌を詠みました。(『巻4・頼政最後』)
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墓地前を過ぎて山の方に向かうと、「高松頼政池」と名付けられた溜池があります。
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♪花咲かば 告げよと言ひし 山守の
来る音すなり 馬に鞍おけ 源三位頼政公
頼政祭第二十回記念 平成十一年四月吉日
頼政祭実行委員会建立 西脇市長 内橋直昭書
(桜の花が咲いたら真っ先に知らせよと申しつけておいた
あの山守の馬蹄の音が近づいてくる。
いざ馬に鞍を置いて出で立とう。鞍の用意をいたせ。)
命令形の「馬に鞍おけ」がいかにも武人らしく爽快です。
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頼政が播磨地頭として高松町を治めていたころ、矢の材料となる
良質の竹が高松山に群生していました。
頼政はこの矢竹を気に入り、ほとんど自分の矢はそれを使ったという。
頼朝が鎌倉幕府を開いてから、本格的に全国におかれるようになりますが、
平氏が台頭する以前から、地頭という役職はありました。
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高松谷川に架かる鵺野橋を渡ります。
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頼政が崇拝したという八幡神社
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白玉稲荷大明神の裏手の矢竹、昔この辺に矢竹藪があり、
扶竹(ふちく=ふたまた竹)が生えていました。
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今はまばらに生えている程度です。
源頼政の墓・鵺退治像(長明寺1)
『アクセス』
「長明寺」 兵庫県西脇市高松町504-1
JR加古川線「西脇市」駅で下車、徒歩約20分
『参考資料』
加地宏江「中世の大阪 水の里の兵たち」松籟社、1984年
富倉徳次郎「平家物語全注釈(上巻)」角川書店、昭和62年
多賀宗隼「人物叢書 源頼政」吉川弘文館、平成9年
上宇都ゆりほ「源平の武将歌人」笠間書院、2012年
塚本邦雄「王朝百首」講談社文芸文庫、2012年
「源三位頼政公ゆかりの歴史の里見て歩き」源三位頼政公奉賛会