平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




木曽義仲を滅ぼした源範頼・義経軍は、二手に分かれて平氏追討に出発し、
丹波路から一ノ谷に向かった義経は、三草山(加東市)で平氏軍を撃破しました。
この時、敗走する平氏を追う義経の軍勢が小野市を通過したといわれ、
市南部の樫山町には、義経ゆかりの伝説と旧跡が残っています。



最寄りの神戸電鉄樫山駅

義経の腰掛け石は、駅前の旧道から約100m北西にある
民家の間を右側に20mほど入った藪の中にあります。





義経の腰掛石 神戸電鉄樫山駅の西方にある大きな石です。

義経がこの石の上に腰をかけて 一休みしたといわれています。

源平合戦の頃(平安時代末期)、社町の三草とりでを落とした源義経一行は
神戸市一ノ谷へ向かう途中、樫山に立ち寄りました。
樫山町にはあちこちに義経の言い伝えが残っており、
この石も義経が腰掛けてひと休みしたと言われています。
また、同町では、源行家と平教盛が戦ったとも言われています。(説明碑)



義経が老女にもらったハッタイ粉を食べて坂道を登ったと伝わる粉喰坂。
はったい粉をもらった義経は、あまりに美味しかったので、
「これからお前の家は粉喰(こくい)と名乗るがよい。」と言い、
以後、このおばあさんの家は、「粉喰(国位)」と名乗ったという。


源平合戦のとき、平家追討の命を受けた源義経は三草山より
一ノ谷へ向かうためこの坂にさしかかった。
行会った老女に道を問い、空腹のため食物を乞うた。
老女は麦をいぶして作ったハッタイ粉を差し出した。
義経らはその粉で腹を満たし、 近くの湧き水で喉を潤し坂道を登った。
以後、この坂を「粉喰坂」、湧き水は
「亀井が淵」と言い伝えられている。(説明碑)



義経一行がはったい粉をご馳走になり飢えをいやして進軍したという粉喰坂。
 竹やぶと雑木に覆われた細い道が続いています。
樫山町から三木市鳥町へ通じる道です。 

 
亀井が淵 こくい坂から山際へあぜ道を辿ると、
直径2m余のくぼ地に湧き水があります。

この湧き水は、当地にやってきた源義経の家臣の亀井六郎という
弓の名手が山麓めがけて矢を放ったところ、
不思議なことに岩間より湧き出したとされています。
この湧き水で喉を潤した義経一行は一ノ谷へ出陣したと伝えられ、その後、
この話は謡曲「清房」にもとり入れられています。また、当地では住吉神社の
神事や大峰山詣の際にはこの湧き水で身を清めたとのことです。(説明碑)

亀井六郎重清は鈴木三郎重家の弟です。重清が弓の名人だったことや
頼朝から領地を与えられていたにもかかわらず重家は、義経の危急を知って
高館に駆けつけ、兄弟とも衣川の戦いで討死したことが『義経記』に見えます。
亀井氏は紀伊の国の豪族、熊野社の禰宜となり鈴木氏と称します。

 
樫山町公民館(樫山町401)に隣接して薬師堂があり、
水路を挟んで国位田碑が建っています。

義経から年貢の免除をうけたこと を示す石碑です。

この石碑には「国位免祖地源御守護神」と記されています。
一ノ谷へ向かう途中、ここ樫山で休んだ源義経一行は、
付近に住むおばあさんから、ハッタイ粉を食べさせてもらい、
一ノ谷を落すことができたそうです。義経は、勝利のお礼に
六畝歩の田と永代に渡る年貢の免除を与えたとのことです。
この付近にその田があり、年貢の免除は
明治九年(1876)まで続いたそうです。(説明碑)
『アクセス』
「こくい坂と亀井ヶ淵」 小野市樫山町 神戸電鉄樫山駅南西約500m
「国位田碑」小野市樫山町 (集落の中心にある樫山町公民館傍) 
『参考資料』
「兵庫県の地名」平凡社、1999年 
NHK神戸放送局編「新兵庫史を歩く」神戸新聞総合出版センター、2008年 
「国史大辞典」吉川弘文館、平成4年 現代語訳「義経記」河出文庫、2004年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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