平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




讃岐国府跡の裏手、城山(きやま)の麓に小高い丘があります。鼓岡です。
この岡には雲井御所から移った崇徳上皇が崩御するまで約6年間住んだ木の丸殿がありました。

鼓岡全景。

崇徳上皇を祀る鼓岡神社。

鼓岡神社由緒
当社地は保元平治の昔崇徳上皇の行宮木の丸殿の在ったところで、
長寛二年(一一六四年)八月二十六日崩御されるまでの六年余り
仙居あそばされた聖蹟である。建久二年(一一九一年)後白河上皇近侍
阿闍梨章実、木の丸殿を白峯御陵に移し跡地に之に代わるべき祠を建立し、
上皇の御神霊を奉斎し奉ったのが鼓岡神社の草創と云はれている。
伝うるに上皇御座遊のみぎり、時鳥の声を御聞きになり深く都を偲ばせ給い、
鳴けば聞き聞けば都の恋しきにこの里過ぎよ山ほととぎすと御製された。
時鳥上皇の意を察してか、爾来この里では不鳴になったと云はれている。
境内には木の丸殿、擬古堂、観音堂杜鵑塚(ほととぎす塚)鼓岡行宮旧址碑、
鼓岡文庫などがあり附近には内裏泉、菊塚、盌塚などの遺跡がある。
鼓岡神社(現地説明板より)

石段の正面には鼓岡神社鳥居、右手に擬古堂(ぎこどう)の鳥居が見えます。
左手の広場には、鼓岡神社の由緒を書いた説明板などがあります。

左から説明板、鼓岡文庫、崇徳上皇念持佛三尊堂、鼓岡碑。

鼓岡行宮旧跡碑

明治40年に府中村の有志が建てた縦3㍍、横2㍍の大きな石碑です。
題字は閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう)の
篆書体(てんしょたい)の文字で彫ってあります。



総坪数30坪ある擬古堂。  
 「くちぬとも 木丸殿を 忘れじと 石に心に 深く刻めり」と詠んだ
細川潤次郎は土佐藩士で、幕末から大正時代にかけての法制学者・教育家です。

擬古堂
保元元年(一一五六)年、保元の乱に敗れた崇徳上皇は讃岐へと配流され、
長寛二(一一六四)年、ここ鼓岡にて四五歳の生涯を終えます。
上皇が暮らしたところは、御所(天皇が住む屋敷)にも関わらず、
とても粗末な造りであったため「木の丸殿(このまるでん)」と呼ばれ、
上皇を慕って訪れた笛の師蓮如(結局上皇と会うことは叶いませんでした)にも
次のように詠まれています。 
朝倉や 白峯寺に 入りながら 
     君にしられで 帰る悲しさ
この建物は、大正二(一九一三)年、崇徳上皇七百五十年大祭が
挙行された際に造られたものです。

粗末だったとされる木の丸殿を偲び、その雰囲気を模して造られているため
「擬古堂(ぎこどう)」という名称が与えられました。
また『白峯寺縁起』によると、実際に上皇が暮らした木の丸殿は、
上皇の菩提を弔うため、遠江阿闍梨章實という人物により
御陵(上皇のお墓)近くに移され、これが今の
頓証寺殿(とんしょうじでん)となったとされています。
平成二十五年三月 坂出市教育委員会(現地説明板)

木の丸殿は、とても粗末な建物だったようですから、擬古堂も皮のついた
丸木で造られ、上皇の住まいは質素なものであったということを表わしています。
一方、讃岐国府が3年がかりで建設したのだから、かなりの規模の
御所であったという説もあります。辺りには南海道の甲知駅跡があり、
擬古堂は甲知の御所ともよばれています。


眺望がいいので讃岐府中駅から讃岐国府跡にかけて、
さらに国分寺跡までくまなく見渡せます。

崇徳上皇歌碑

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の  われても末に 逢わむとぞ思ふ 


岩にせき止められて、二つに分かれた急流がやがて一つになって合流するように、
今はあなたとの仲をさかれても、いつか必ず逢おうと心に決めています。
崇徳天皇が譲位してまもなくの作とかで、
百人一首第77番、『詞花集』恋歌で広く知られています。

杜鵑塚
 啼けば聞く聞けば都の恋しさに この里過ぎよ山ほととぎす 崇徳天皇
ほととぎすの鳴く声を聞けば、崇徳天皇が都を思い出すので、
里人がホトトギスを殺したり、追い払ったりしたので、
のちにほとぎす塚をたてて供養したそうです。(駒札より)


この歌は実際には、後に承久の乱に敗れ隠岐の島に流された
後鳥羽上皇が配所で詠んだものです。
それが崇徳上皇作の歌として誤り伝えられ、
上皇の悲劇の生涯に同情した人々によって語り継がれてきたようです。
『アクセス』
「鼓岡神社」坂出市府中町乙5116 讃岐府中駅から徒歩約15分 
『参考資料』「香川県の地名」平凡社、1989年

 「香川県の歴史散歩」山川出版社、1996年 「郷土資料事典 香川県」ゼンリン、1998年
 郷土文化第27号「崇徳上皇御遺跡案内」鎌田共済会郷土博物館、平成8年


 



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