平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




願成寺の墓地には、通盛と妻小宰相の五輪塔が並んでいます。

願成寺はもと烏原村(現在の神戸市烏原水源地)にあった行基開基の真言宗の
寺院でしたが、
安元二年(1176)、法然の弟子住蓮が浄土宗の寺として再興しました。
明治後期、烏原が上水道の貯水池となったため、現在地に移転しました。


小宰相の乳母の呉葉は住蓮の義妹です。
主の死後、この寺を頼って尼となり、
通盛と小宰相の菩提を弔ったという。

のちに住蓮は、思いがけない事件によって処刑されました。
建永元年(1206)12月、後鳥羽上皇の熊野詣の留守中、
上皇の侍女松虫と鈴虫が、法然の愛弟子安楽と住蓮が行う念仏会に参加、
その時、安楽、住蓮が二人を出家させたと伝えられています。
熊野から帰った上皇は激怒し、安楽、住蓮は死刑になり、
法然は四国に、親鸞も越後に流罪となりました。






比翼塚







小宰相の乳母呉葉と後鳥羽上皇の侍女松虫・鈴虫の墓

一の谷合戦の際、通盛は弟教経らとともに山の手に陣を構えていましたが、
戦いの前日、小宰相を陣に呼んで別れを惜しみました。
その翌朝、雪崩のように寄せてきた義経別動隊に急襲されて味方は壊滅し、
痛手を負った通盛は、自害の場所を探すうちに湊川の川下で
敵の手にかかってしまいました。小宰相は屋島へ逃れる船中で、
夫の死を知ると深夜に入水しました。
当時、夫に先立たれた妻は出家して尼となり、夫の菩提を弔う習わしは
よくあることでしたが、入水するということは滅多にないことでした。

「巻九・小宰相の事」には、小宰相が通盛に見そめられて結婚するまでの
エピソードと、夫の後を追って海中に身を投げるまでのいきさつが書かれています。

小宰相はもと上西(じょうさい)門院に仕えた女房で、
女院が法勝寺(ほっしょうじ)の花見の宴を催された時、
通盛はそのお供をして16歳の小宰相を見そめます。
上西門院統子は鳥羽天皇の皇女で、
崇徳・後白河両天皇とは、同母(待賢門院璋子)の兄弟です。

通盛は小宰相に何度も文を送りますが、一向にとりあってくれません。
三年も経ったので、これが最後と決めた文を使いの者に持たせます。
使いの者は偶然に御所に行く小宰相の車に出会い、
この機を逃してはと、文を車に投げ入れて立ち去ります。
小宰相はその文を捨てるわけにもいかず、袴の腰にはさんだまま
御所に行き、宮仕えをしているうちに落としてしまいました。
上西門院がそれを拾い文をあけて見ると、
たきこめた香の香りがして、美しい筆跡で和歌が書かれていました。
♪わが恋は細谷川の丸木橋 文返されてぬるヽ袖かな

女院は手ずから返歌をしたためて二人の仲をとりもちました。
♪ただたのめ細谷川の丸木橋 ふみ返しては落ちざらめやは

通盛は宗盛(清盛の三男)の十二歳の娘を正妻にしていましたが、
深い愛情で結ばれていた小宰相が実質的な妻だったといい
『平家物語』は小宰相を通盛の北の方としています。

さて一ノ谷合戦で生き残った者は屋島へ渡ります。
その船中で夫の戦死の知らせを聞いた小宰相は、悲しみにうちひしがれ
起き上がることもできません。夜が明ければ屋島へ着こうかという夜、
小宰相は乳母に次のように語ります。「合戦の前夜、『明日の合戦は
討たれるような気がする』と夫は心細そうに言っていましたが、それでも
私が身ごもっていることを告げると、大そう喜び私の身体を気遣ってくれました。
戦いはいつものことなので、深く気のもとめずにいましたが、まさかこんなことに
なるとは思いませんでした。生きていればこの先どんな憂き目に会うかわからない。
いっそこのまま水の底にでも入りたい。」と言うと乳母は、はらはらと涙を流し
「幼い子や老いた親を都に残してあなた様にお仕えしている私の気持ちも
わかって下さい。それに一ノ谷で討たれたのは通盛様だけではありません。
みな悲しみをこらえて生きていらっしゃいます。無事にお子様を生み
お育てになってから出家して通盛様の菩提を弔うのが道というものです。
本当に覚悟されたなら、私も海の底に一緒に連れて行ってください。」と
乳母に説得され、小宰相は投身をあきらめたかのように見えました。
疲れがたまっていたのでしょう乳母がうとうととした一瞬のすきを見て、
小宰相はそっと床をぬけ出して身を投げてしまいました。

この行は平家物語の中でも哀れが深く美しい場面です。
「漫々たる海上なれば、いづちが西とは知らねども、月の入るさの山の端を、
そなたの空とやおぼしけむ。静に念仏したまへば、沖の白洲に鳴く千鳥、
海人の門(と)渡るかじの音、折からあわれやまさりけむ、しのび音に念仏百遍ばかり
唱えさせ給ひつヽ(略)『南無』と唱ふる声とともに、海にぞ沈み給ひける。」

舵取りの男がそれを見つけて「女房が身投げしたぞ。」と大騒ぎし
海に潜って助けようとしますが、暗くて中々見つけることができません。
やっと助け出した時には、白い衣も髪の毛もぐっしょりと濡れ、
すでにこの世の人ではありませんでした。
乳母の嘆きは目もあてられません。
自分の顔を死骸に押し当てて
「なぜ一緒に連れて行ってくれなかったのか。」と泣き叫びます。
亡骸をいつまでもこうして置くこともできないので、
通盛の鎧を着せ、静かに海の底に沈めました。
続いて乳母も入水しようとしますが、人々に取り押さえられて力及ばず、
やむなく自分で髪をおろし、通盛の弟忠快が出家の戒を授けました。

忠快は清盛の弟、門脇中納言教盛を父として生まれ、
比叡山に上り、覚快法親王(父は鳥羽天皇)に入室し慈円の弟子となり、
律師(僧の官職名)に任じられましたが、平氏一門とともに都落ちします。
壇ノ浦合戦後、伊豆に流され狩野宗茂の監視下に4年近く過ごします。
しだいに頼朝を初め鎌倉の有力者たちの帰依を得るようになり、
赦されて上洛し再び慈円に師事します。その後、忠快は何度も
京と鎌倉の間を往復し、将軍実朝からも絶大な信頼を得ます。

平家の生き残りであった忠快は、平家のことを語り伝えた人物で
『平家物語』の作者とも接点があったと見られ、
この物語の成立と深い関わりがあったと思われます。
平通盛と小宰相1(神戸市の氷室神社)  
『アクセス』
「願成寺」兵庫県神戸市兵庫区松本通2丁目4−11

神戸電鉄湊川駅及び地下鉄山手線湊川公園駅より徒歩5分
『参考資料』
五味文彦「平家物語 史と説話」平凡社 角田文衛「平家後抄」(下)講談社学術文庫
梅原猛「京都発見」(法然と障壁画)新潮社 
「兵庫県の地名」平凡社 杜山悠「神戸歴史散歩」創元社

「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社

 



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